Skip global navigation and go to header navigation

Skip global navigation and read the article

Skip global navigation and go to local navigation

Skip global navigation and go to footer navigation



Top Page >  DSJ Journal >  Dostoevsky Bulletin vol.01 >  書評・映画評その他

書評・映画評その他


アレクサンドル・ソクーロフ「ファウスト」

『ファウスト』(Faust)は、アレクサンドル・ソクーロフ監督が2011年に制作したロシア映画。第68回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。審査員長D・アロノフスキーは「これまで見たことのない、できれば再びは見たくない世界にいざなってくれる映画」と評した。
アイスランドのファウスト  
ーアレクサンドル・ソクーロフ『ファウスト』を観る  
亀山郁夫(『世界が終わる夢を見る』より)

アイスランドのファウスト  
ーアレクサンドル・ソクーロフ『ファウスト』を観る  亀山郁夫

 なぜ、人は『ファウスト』の物語に惹かれるのか?
 人は、という主語がふさわしくなければ、なぜ、芸術家は、『ファウスト』に惹かれるのか?
『ファウスト』には、天才的と呼ばれる芸術家のナルシシズムをそそる何かがある。
映画のジャンルでは、F・ムルナウ、ルネ・クレールといった映画芸術の草創期の天才たちが、オペラのジャンルでは、グノー、ベルリオーズ、リスト、ボーイトら主にロマン主義の作曲家たちが、小説のジャンルでは、T・マン、ドストエフスキー、ブルガーコフらがこのテーマに果敢に立ち向かってきた。
 答えは、それなりに用意できる。天才、凡人を問わず、永世と快楽は、死すべき人間の永遠の夢であるし、あるいは、現世的な権力がめざす最後の到達点といっていい。その到達点をめざし、虚しく生命力を枯らしていくのが、凡人の定めであるなら、その見果てぬ夢をどこまでも見続けることが、芸術家にとっての最大の励ましなる。では、ソクーロフが『ファウスト』に託した天才の運命とはどのようなものだったのか。
アレクサンドル・ソクーロフもまた、先人の多くの芸術家たちと同様、ありとあらゆる知を渉猟したあげく、その無意味さを悟った人間の絶望という主題を基本に置いている。ファウストの探求心は、ついに、人間の肉体のなかに魂の実体を探しもとめるという究極の段階に来ており、そこから先はもはや神の恩寵にすがりつくしかないぎりぎりの状況にあった(「何もかもはかない、悪臭を放つ」)。
 他方、ゲーテのファウストは、「私のなかには二つの魂がある」という言葉が示すように、その絶望からの出口をはっきりと見定めていた。その二つの魂とは、「欲望をむきだしにし」、現世にしがみついて生きようとする魂と、「高く地上から飛翔して、天界のものたちに憧れる」魂である。そのファウストが、最終的に選んだ道こそが、前者、すなわち、人間として生命を生きつくし、人類とともに死ぬという覚悟だった。
 ソクーロフの『ファウスト』は、ゲーテの原作を自由に翻案しつつ、徹底した脱構築を志している。観客は冒頭から、その異様に猥雑なたたずまいに圧倒されるにちがいない。
 廃墟とも見誤りそうな町なかを、餓死寸前の状態でさまようファウスト。ゲーテの描くファウストには、巨人的ともいうべき圧倒的な精神のオーラが感じとれたはずだが、ソクーロフの描くファウストには、もはや英雄性やカリスマ性など微塵も感じられない。ソクーロフのファウストは、メフィストの巧みな誘導によってずるずると破滅の道に引きこまれる、受身の天才でしかないのだ。
衝撃的なのは、マルガレーテとの恍惚の眠りから覚めた彼の眼前に立ち現われる光景である。甲冑に身を包み、馬上の人となったファウストとメフィストの前から、緑の大地も水車小屋も失われ、「天国」と称される巨大な岩塊の原野が立ち現れる。メフィストはその地を、「地の果て」「無」の世界と呼ぶ。
 死後の世界に旅立ったマルガレーテを救うには、この「地の果て」にある地獄に赴かなくてはならない。敏感な読者なら、お気づきだろう。ソクーロフは、甲冑姿で馬上の人となった二人に『ドンキホーテ』の物語を二重写しにし、「永遠に女性的なもの」の象徴であるマルガレーテをドゥルシネア姫に変貌させている。
 突如、岩山の向こうから吹きこぼれる間歇泉と、そして遠くに仰ぐ氷河群。アイスランドの風景である! ファウストとメフィストのワルプルギス行をカットしたソクーロフの『ファウスト』には、極度に暗号化された「引喩」が潜んでいたことがここで明らかになる。それは、ほかでもない、「ロシアの負のファウスト」を描いたドストエフスキーの『悪霊』である。
 あらゆる悪に倦みつかれた主人公スタヴローギンは、少女を凌辱し、死に至らしめた後ヨーロッパ遍歴の旅に出るが、彼の旅の最終目的地がアイスランドだった。この神がかった天才と、マルガレーテを誘惑し、ついには死刑に追いやるファウストが二重映しになる。ヒントは、「間歇泉」をまのあたりにしたファウストが、自信に満ちあふれて「お前の正体はわかった」と叫び声を発する場面だろう。これは、まさに、スネッフェルス山の火口に立ったスタヴローギンが発した叫びでもあったにちがいない。
 大地の底から吹きこぼれる熱湯を前にしてファウストはみずからの天才を確信し、メフィストと袂を分かつ。岩塊の下からメフィストが吐く呪いの呻き「ここからどう出て行く?」も、天上からひびくグレートヘンの「どこへ行くの」の声も顧みられることはない。傲慢な哄笑とともにどこまでも「天国」をめざして突き進むファウストに狂気の影が忍び寄る。
「素質と精神さえあればいい。それで自由な地に自由な民を創れる」と豪語する彼を、眼前に広がる「虚無」の光景がみごとに裏切っているのだ。「ロシアの負のファウスト」は、アイスランド行からの帰還後、ロシアの田舎町で縊死を遂げるが、ソクーロフは、はたしてアイスランド後のファウストにどんな運命を用意していたのか。ことによると、これは、マルガレーテとの恍惚の眠りのなかでファウストが夢みた、未来のひとコマにすぎないのか。