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メッセージ


奈落の淵にて --------------------------- イーゴリ・ヴォルギン

 一八八〇年にモスクワでプーシキン像の除幕式が行われた際に、ドストエフスキーはおそらくロシア史上でもっとも有名な講演を行った。その講演で、ロシア文学の世界的な意義が初めて高らかに宣せられたというだけでなく、ロシア文学とわが民族の存在基盤との強固な結びつきもまた明確に定義され、われわれの自己意識、ロシアの民族精神の主たる特徴が名ざされ、指摘されたのである。すなわち、ロシアの民族精神の西洋・東洋の双方の諸要素に対する開放性、世界苦に対する鋭敏な反応、「子供の一滴の涙」[1]の上に築かれた世界秩序への拒絶である。
 ドストエフスキーがロシアにとって実際のドストエフスキー以上の存在であることは言うまでもない。かりに活動分野を純粋芸術に限定することを願う作家ならば、おそらく、これは彼にとって最良の讃辞とは言えないだろう。だが、ロシアのような国では、ゴーゴリ、トルストイ、ドストエフスキーにとって、場合によっては、「単なる文学」ではものたりないのである。だから、彼らは、一見、作家が従事すべきではないように思われることに突如取り組み始める。芸術と現実との間に新しい相互関係を打ち立てることを望むのだ。彼らは日常生活の流れと理想的使命とを再統合し、その使命を世界の行動規範にすることを熱望する。彼らの至高の目的は、存在の成り立ちそれ自体の変容、新しい生の構築である。
 ドストエフスキーが講演を行ったのが、ロシアにとって運命的な時期、風雲急を告げる国家的危機の時、相互殺戮のテロルが極限に達した時代であったのは単なる偶然である。国家は決定的な歴史的選択を迫られていたが、ドストエフスキー自身の表現によるならば、国家「全体が奈落の淵でよろめきながら、ある最後の一点に」[2]立っていたのである。
 プーシキンの言葉〔「『ヌーリン伯』に関する覚書」(一八三〇)〕を借りるならば、「奇妙な一致」を好む運命にとって、わが国の歴史上、二一世紀初頭が一九世紀末に劣らず(あるいはそれ以上に)劇的な時代であることは願ったりかなったりのことかもしれない。ドストエフスキーが一世紀以上前に提出しながら、今なおはっきりとした歴史的答えを与えるにいたっていないいくつかの問いかけ――われわれは何者なのか、何のためにわれわれはこの世界にいるのか、「宿命的な出来事はわれわれをどこに導くのか」――に、今日あらためてわれわれは答えを迫られている。われわれはドストエフスキーの予言、警告に耳を傾けようとしているのか、われわれは民族(ルビ:ネーション)としてドストエフスキーのキリスト教、彼の高邁な理想主義を共有できるのか、あるいはそれともロシアの精神的なパルテノン神殿とも称すべきプーシキン、ドストエフスキー、トルストイの形而上学的な廃墟をわずかばかりの謝礼を貰って物見遊山の外国人に案内する三〇世紀のギリシア人になり下がるのか――今日、あらためて問われているのは、このような問題である。ロシア国家という有機的な身体や、持続するロシアの歴史から切り離されてしまえば、彼らは文献学的なキマイラ、博物館の死せる遺骨に化してしまうだろう。われわれとは異なり、彼らは現在のような歴史的空虚を生き延びることはできない。
 現代史の歩みを見れば、ロシアのみならず、全世界が今や「奈落の淵でよろめきながら、ある最後の一点に立っている」ことは明白である。そしてセミョーノフスキー練兵場[3]の隠喩を用いるならば、人類はいわばすでに処刑台に上っていて、最後の瞬間に刑が特赦されるかどうかもわからない状態にあると言うことができる。だが、もしや幸運にも人類が赦されて、世界史がこの先も勝者の凱旋行進を続けることができるとして、はたしてわれわれは自分たちの死の経験から、ドストエフスキーが処刑台上で得たような教訓を引き出すことができるだろうか? その特赦(かりに特赦があるとして)は、われわれの精神の甦りに役立つであろうか?
 ドストエフスキーはロシアそれ自体と一体不可分であり、存在論(ルビ:オントロギー)的なロシア、つねに存在しているのに、具体的な一瞬一瞬にはいまだかつて存在したことがなく、おそらく今後も存在することがないであろうロシアと不可分である。彼はユートピアの精神とアンチ・ユートピアの精神を同時に体現している。彼は成就は容易ではないが、ぜひとも解決しなければならない課題なのである。
訳註
[1] 『カラマーゾフの兄弟』第五篇第四章「反抗」におけるイワン・カラマーゾフの言葉。彼は、虐殺された無辜の「子供の一滴の涙」の上に築かれる、神と人間の黙契による世界調和など認めることはできないと叫ぶ。
[2] 引用は一八七八年四月一八日付の書簡「モスクワ大学の学生諸君へ」による。この手紙は、デモ中に学生が肉市場の商人に襲われた四月三日の事件をめぐるジャーナリズムの論争について、モスクワ大学の六人の学生からの連名のドストエフスキー宛手紙に対する返信である。
[3] ペテルブルグにある練兵場。ペトラシェフスキー事件に連座したドストエフスキーら被告全員は銃殺刑の判決を受け、一八四九年一二月二二日、この練兵場に設置された処刑台に連行された。だが刑の執行直前になって、特赦による減刑が告げられ、ドストエフスキーにはあらためて懲役四年が言い渡された。この死刑執行劇はあらかじめ仕組まれた茶番であった。
(訳=杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学)
Title: Достоевский 21 века
Author: Игорь Волгин

「聴く」から「見る」へ ------------タチヤーナ・カサートキナ

  二〇世紀の人々はドストエフスキーの声に耳を傾けてきた。二一世紀にはドストエフスキーを見ることが始まっている。二一世紀になって、イメージの系列、視覚が言葉の系列、言語知覚を根本的に圧倒してしまったことを考慮するならば、今述べたことはドストエフスキー作品に新しいアクチュアリティを与えるであろう。
 二〇世紀において、実証主義的な志向が発達した結果、他者の声に鈍感になり、自分があまりに鈍感でないかと危惧した人々はドストエフスキーを、十全な価値を有する他者――彼についてわれわれが抱く観念に還元できない他者、その声を聞いている当人がたとえ一瞬でもいいからうまくそれになりおおせるような他者――が発する声の聞き方を教示してくれる人と見なした。彼らはドストエフスキーの主人公たちの声をいわば自らの内なる声(圏点:、、、、、、、)のように聴こうとした。だから、イメージやイメージの細部は彼らには煩わしいものであった。一九世紀から二〇世紀のはざまに生きたある批評家は、『悪霊』の演出でドストエフスキーの登場人物たちの衣装が当時のそれを正確に再現しすぎていると言って不平を述べたことがあった。とりわけ、衣装の色が当時のままであることに不満であり、総じて色彩豊か(ルビ:カラフル)であることが気に食わなかった。目に見えるものすべてが黒白であれば良かったのだろう。
 なるほど確かに、何かを注視せざるをえないとすれば、大切なことに耳を傾けたいという期待は裏切られることになる。
 とはいえ、二〇世紀が聴いたのは、もっぱらドストエフスキーの登場人物たちの声だけである。というのも、ドストエフスキー自身の声は彼の芸術テクストに存在していないからである。作者はそこでは別の形で存在している。より正確に言えば、彼は諸々のイメージを介してそこに存在しているのだ。ドストエフスキーが語っていることを聴くことはできない。だが、見ることならできる。
 人間は現象の総和に還元できない――と述べたのはドストエフスキーが最初である、――なぜなら、そうした現象それ自体が真の意味を獲得するのは、当の人間にいったい何が現象しているかをわれわれが見るときだからである。人間の核心を見ることなくして、その人間が構想と課題においてしかくあるべきものを見ることなくして、われわれは彼の行為の意味を自らに正確に説明することはできない。そして、その行為が悪しきものであるならば、われわれは、われわれの目に歪んで映じているものが何なのか、神の構想がどれほどすばらしいものであるかを理解できない。
 ドストエフスキーのテクストでは、一切合財が千本の糸で結びあわされている。だが、ただ聴くだけで、見ようとしないならば、そのことに気づきえない。長篇『罪と罰』に執拗に出てくる陰鬱な黄色とラスコーリニコフの犯罪とはいかなる繋がりがあるのか? 犯罪者ラスコーリニコフは課題の上では小説世界のキリストである。だが、人は誰であれ、各人の人生においてそうである。どの学生も問われれば、小説冒頭部分、ラスコーリニコフの母の手紙の最後の一節には、聖母と嬰児キリストのイコンがあることを認めるであろう。その一節とは次のようなものだ。「ロージャ、おまえは以前のように神さまにお祈りをしているでしょうね、私たちの創造主にして救い主のお慈悲を信じているでしょうね? 私は内心、おまえも最新流行の無信仰に取りつかれているのではないかと危惧しています。もしそうなら、おまえに代わって私が祈ってあげます。どうか思い出しておくれ、おまえがまだほんの子供で、お父さまもご存命だった時分、おまえは私の膝に抱かれて、満足に回らぬ舌でお祈りをしていたことを、あのころ、みんながどんなに幸せだったかを!」〔第一部第三章〕。キリストが世界の太陽たるゆえんは、彼が幸福をつきることなく恵む人だからである。そして、ラスコーリニコフもそのように振舞う、持てるいっさいをまわりの人々に与えようとして。だが、そうなるのは、自分が持っているのがごくわずかなものにすぎず、万人に分け与えるにはたりないと認めるだけの自分なりの計算や理性を当てにしなくなるときであって、援助の手立てを得るためには、誰かから奪わなければならない。理性の声に耳を傾けていると、主人公は自分が太陽であることを信じられなくなる。こうして小説の中の明るい太陽光線は消え、その代わりに恐るべき黄色――困窮と欠乏の色、濁った水の色、色褪せた壁紙の色、ソーニャの黄色の鑑札〔娼婦の鑑札〕の色――が出現する。小説のくすんだ黄色は、もう二度と輝かない太陽の衰えた色である。ラスコーリニコフに向けて発せられるもっとも重要な呼びかけは、予審判事ポルフィーリー・ペトローヴィチの口から発せられる――「あなたが太陽になれば、みながあなたを見ることになります。太陽はまず第一に太陽にならなければならない」〔第六部第二章〕。
 ドストエフスキーは、人間自身ですら破壊できない世界と人間の美を、深遠なイメージによってわれわれに示す。美は神が人間に与えたまう課題である。そして、もし人間がその課題を実現すると発心し、真に自己自身たらんと発心するならば、世界は廃墟から復活し、黄色は太陽の輝きに転ずるであろう。かくて美は世界を救う……。

(訳:杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学)
Title: Значение Достоевского в XXI веке
Author: Татьяна Касаткина

ペルソナなきポストモダニズムの大海で------------------------------パーヴェル・フォーキン 

 われわれは二一世紀を生き始めたばかりであり、この時代が今のところ明らかにしているのは、将来紛争が頻発するだろうということ、様々な成長が見込めるということだけである。質的に新しい状態の世界でその生を送ることになるであろう人々にとって、ドストエフスキーの芸術的、精神的遺産はいかなる意義を有するか――こんなことを現時点で語ろうとするのは、コーヒーの澱で占いをする[1]とか、あるいはせいぜい未来学的な予測をでっちあげるといったことに等しい行為だろう。自信を持って考察できることはと言えば、ドストエフスキーの名、彼の人格、運命、彼が創造した諸形象、彼と彼の主人公たちが口にした思想と警句の周囲に、二〇世紀の世界文化が蓄積してきた慣性力〔inertial force〕の潜在的な可能性についてぐらいである。
 二〇世紀文化全体がドストエフスキーのエクメーネ[2]を開拓し、ロシア作家の予言者的な眼の前に出現した宏遠かつ深遠な知的空間を、入手しうるすべての手段を用いて開発しようとしたと言ったとしても、それほど大げさな誇張にはならないだろう。二〇世紀の芸術家や思想家は多くの点でドストエフスキーのおかげを被っている。ところがドストエフスキーもまた、より正確にはドストエフスキーの書物の読者の運命やドストエフスキーの死後の名声もまた、多くの点で世界文化の活動家たちのおかげを被っているのである。彼らの尽力のおかげで、ラスコーリニコフやカラマーゾフ兄弟の生みの親は西欧文明の頂点へと押し上げられ、ホメロス、プラトン、ウェルギリウス、ダンテ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、セルバンテス、シェイクスピア、ゲーテ、カントといった、神にも比すべき巨人たちに伍する地位を占めることになったのである。文化におけるほかならぬこの位置づけによって、今後も――二一世紀であれ、人類に残された全期間であれ――、ドストエフスキーの意義は規定されるであろう。幾百万の読者の創造的なエネルギーによって、彼らの幾年にも及ぶ(総計すれば、数世紀にもなろう)思索と論争の積み重ねによって、無数の作家、批評家、画家、俳優、演出家、作曲家、哲学者、神学者、法学者、政治学者、心理学者たちの間断なく続く共同作業の過程によって、ドストエフスキーは変貌し、一〇〇倍も強化され、鍛えられて、その実質は豊かになった。彼らのおかげで、ドストエフスキーは人類の情熱、要求、労苦、希望という灼熱の重荷をその双肩で支える、世界文化のアトラスの一人となったのである。
 現代世界において宗教意識の絶対的価値をおごそかに確言しようとする場合、彼は不可欠の拠所である。個性(ルビ:ペルソナ)なきポストモダニズムという一切合財を呑みこむ大海の中で、ドストエフスキー(と彼の周囲に稠密に作り上げられた文化)は、宇宙――その根底にあるのは、神のペルソナとその姿に似せて創られた人間のペルソナである――の位階構造(ルビ:ヒエラルキー)の原初の堅固さを示す明確な(そして説得力ある)見本である。ドストエフスキーは、情報の洪水が人間の生のすべての空間――国家、家、意識、魂――を深々と呑みつくさんとするときに、救済の新たな方舟が唯一たどり着くことができる宗教的なアララト山である。
 ヴァーチャルな行動選択、仮想の行動不変性という数値化された現実の中で、ドストエフスキーは形而上学的な決定論という思想を目に見える形ではっきり表現しており、ペルソナが放恣に耽り、全知を装って倨傲に陥り、無責任に走ることを未然に防ごうとする。彼の主人公たちのほぼ全員が狡猾なたくらみに満ちたパラレル・ワールドに生きており、おそらくそれゆえに、未来に向かって疾駆する現代人にとって身近な存在である。生きいきとした生、実際的な現実、俗な世界の堅固な地盤との繋がりを失うとき、人は滅びる。仮想の小世界を打破して、一元的な事象群、検証しがたい異説群、偽の解釈群が織りなす網状組織から脱するとき、人は勝利する。ドストエフスキーのリアリズムは現実を多元的に記述し、分析する体系であり、未来永劫にわたる精神的適合性の証である。
 ドストエフスキーの遺産が二一世紀においてたどるであろう運命は、二〇世紀の西欧文化の精神的な豊かさがいかなる水準のものであったか明示するに相違ない。

訳註
[1] 「コーヒーの澱で占いをする」は「でたらめな当て推量をする」ことの喩え。
[2] 「エクメーネ」は「地球上で人間が定住している地域」を意味するドイツ語(Ökumene)起源の地学用語であるが、この場合は「ドストエフスキーの影響力の及ぶ範囲」ぐらいの意味であろう。

(訳:杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学)
Title : Достоевский в 21 веке
Author : Павел Фокин

懐疑の坩堝をくぐり抜ける -------ボリス・N・チホミーロフ

 私は、二一世紀におけるドストエフスキーの意義について私見を述べるようにとの要請を受けた。だが、二一世紀の最初の一〇年を振り返ってみて、この一〇年が前世紀と比べて質的に新しい時代になったと見なせるような際立った特徴を有していたとは思えない。とりわけ、ドストエフスキーのような桁外れの現象について語ろうとする場合、一〇年という尺度は提起された課題にとってあまり適切でないような気がする。ミハイル・バフチンは、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の作者は「大きな時間のコンテクスト」の中で研究し、評価しなければならない[1]と主張している。ドストエフスキーは一時代を画する現象である。とはいえ、ドストエフスキーの時代は今なお完結したとはとうてい言えない。われわれが体験しつつある時代は、ある意味ではドストエフスキーの時代の圏域にあるのだ。ロシアの大作家の精神的遺産が現代人にとっていかなる意義を持つかという問題も、第一にこのことによって規定される。
 ドストエフスキーは、ホメロス、ダンテ、シェイクスピア、セルバンテス、ゲーテ、トルストイといったヨーロッパ文化の巨人たちに伍する、人類史上もっとも偉大な芸術家であり、同時にロシアのみならず、世界でもっとも重要な宗教思想家の一人である。しかも、この作家の際立った特徴は、彼の宗教・哲学思想が芸術形式に肉化されたというだけでなく、どうやら芸術形式でしかそれは実現できず、そこでしか真の頂上をきわめることができなかった、という点にある。他方、ドストエフスキーの芸術は宗教問題を土壌にして成長するとき、ほかならぬそのときにこそ極限的な緊迫に達し、本来の創造力を全面的に発揮する。しかしながら、作家の現代的意義は、読者が彼の作品に宗教的な説教を見いだすという点に存するのではまったくない。ドストエフスキーが生きた時代は、宗教意識と信仰がこのうえなく深刻な危機にさらされた時代である。「五大長篇」の多くの登場人物(イポリート・テレンチエフ〔『白痴』〕、ヴェルシーロフ〔『未成年』〕、イワン・カラマーゾフ、大審問官)を通して、ドストエフスキーは伝統的なキリスト教――キリスト教の教義、キリスト教の道徳、キリスト教の世界観全体――を大々的に問題化する。ほかの登場人物(もっとも尖鋭なのは『悪霊』の悲劇的な無神論者キリーロフだが、シャートフもその点では劣らない)は、無信仰の極北の中で、信仰もなく、神もなく、神人キリストもなしで生きていくことができない人間の苦しみを身を持って味わいながらも、自らの求神主義[2]を狂信して、教会の伝統的なキリスト教から逸脱し、一方〔キリーロフ〕は自分自身の自我に神的な意義を賦与しようとするし、他方〔シャートフ〕は一民族(ロシア民族)を特権化して、それに同じく神的な意義を賦与しようとするのである。「人間の魂の深淵をあますところなく」描くことを自らの創造の課題とした芸術家として、ドストエフスキーは、現代人が信仰を喪失しているという事実を確認するだけでなく、その際、個人意識と社会意識の両面においていかなる変化が生じているかを芸術的に探究する。作家にとって、信仰は、人間の文化のすべての伝統的な価値――道徳的、思想的、美的価値など――が拠って立つ不可欠の基盤である。信仰を喪失すれば、諸価値の堅固な階層秩序(ルビ:ヒエラルキー)は瓦解し、人間の意識は存在論的な支えを失って、相対主義の猛威にさらされる。人間の意識にとって、善と悪、美と醜、偉業と悪業などを分かつ境界線は消滅する。その意味で、ドストエフスキーは来るべきポストモダニズム症候群を最初に見いだし、記述した第一発見者=芸術家であり、単一不可分な全人類的文化を細片化し、人間の個性それ自体を解体するポストモダニズムという「腫瘍」がもたらす破壊的な事態を予言した芸術家であった。彼の作品および世界文学全体において、最初の「ポストモダニスト」となったのは、長篇『悪霊』の主人公ニコライ・スタヴローギンである。そして、二〇世紀と二一世紀のはざまに生きる現代人は、ドストエフスキーが後期作品でその可能性を予言者さながらに予感し、その危険性について警告を発した、ほかならぬあの精神の「座標系」に位置しているのだ。しかも、信仰の深刻な危機によって引き起こされた上述の傾向は、今日、脅威的な激しさで進行・拡大しているが、反面、その反動として、人間精神の自由を完全に排除するか、根本的に弱体化させる全体主義的な画一化への志向をも生じせしめている。こうしたすべてがドストエフスキーの創作の最重要問題であることは、言をまたない。ロシアの作家は、個人を超える普遍的な絶対者を失って、それぞれの人間が自分独自の真理を持ち、自分なりの善悪の観念を持つ世界(ラスコーリニコフが監獄で見る夢)において、将来起こるであろう精神のカタストロフの危険を最初に描いたが、同様に、神に頼らずもっぱら自力更生にすべてをゆだね、自己自身を恐怖する神なき世界(大審問官のアンチ・ユートピア)が最後に行きつくかもしれない、歴史的発展の袋小路をも指摘したのである。
 だが、ドストエフスキーの精神的遺産の比類のなさは、彼が人間の魂と人間社会を支配する罪の力、分裂、混沌を、彼以外のどの芸術家もなしえなかったような形ではっきり理解し、描いたという点だけにあるわけではない。福音書著者ヨハネの言葉「光は闇の中で輝いている。闇はこの光を捉えなかった」〔『ヨハネによる福音書』一章五節〕を、ドストエフスキーの全作品のエピグラフとして引くことができよう。ドストエフスキーは自作に悲劇の精神、混沌、闇を最大限に注入しただけではなく、深々とした漆黒の闇、堕落した人間の魂の中で彼を呑みこむべくぱっくり口を開けた「サタンの奈落」を逃れて、光、調和、理想へと向かったのである。そして、闇の支配に屈しないこの光、闇に打ち勝つ力をもたらすこの光とは、彼にとって神人キリストであった。地上的な存在である人間の本性にひそむ理想の可能性をその個性(ルビ:ペルソナ)に肉化したキリストは、自ら進んで十字架の犠牲となることで、作家にとって美を最高の形であらわすものとなり、それを実行しさえすれば、美への参与の道が開かれるというあの教え――「私があなたがたを愛したように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい」〔『ヨハネによる福音書』一三章三四節〕――を説いたのである。
 最晩年の手稿の一つに、ドストエフスキーは次のような覚書を残している――「私は子供のようにキリストを信じ、信仰しているわけではない、私のボゾンナは懐疑の大きな坩堝をくぐり抜けて訪れたのだ」[3]。この告白は、ドストエフスキー個人の宗教的な探求とキリストの獲得の過程を示す証左というにとどまらず、同時に、ドストエフスキー(および彼の創作)を根本的に刺激しているものが何なのかを明らかにし、作家の芸術意識のメカニズムの本質に光を当てる簡潔にして十全な言葉でもある。なぜならば、ドストエフスキーの創作に「ホザンナ」――神および神の創りたまう世界への最高の讃辞――を肉化できるとすれば、唯一、大いなる「懐疑の坩堝」をくぐり抜けてホザンナが訪れるその過程を描くことによってしかありえないからである。というのも、人間の精神の自由への道はそれ以外にありえないからである。抽象理論の中ではなく、「悪魔と神が闘いを繰り広げている」人間の心の中で展開されるこの「争論(ルビ:コントロヴェルザ)」、「proとcontra」[4]のこの相克こそが、ドストエフスキー作品の読者に強烈な衝撃を与えるのだ。そして、ひょっとすると、それは何より現代の読者にとってそうなのかもしれない。というのも、現代とは、神への信仰と人間への信頼を妨げるcontraの論拠がいまだかつてなかったほどに蓄積されて「臨界質量」〔critical mass〕に達した時代であり、同様に、信仰の危機と同時に無信仰の危機、無信仰の行きづまりもまたますます尖鋭に感じられる時代であるからだ。そして、その無信仰の克服は多くの人々にとって、「ドストエフスキーが歩んだ道」――「懐疑の大きな坩堝」をくぐり抜ける自由な精神がたどる道――の上にあると考えられ、それ以外にはありえないと考えられているのである。

訳註
[1] ポーランドのジャーナリスト、ポドグージェツによるバフチン・インタヴュー「ドストエフスキーの小説のポリフォニー性について」(一九七五)における発言。「大きな時間」は晩年のバフチンの主要概念の一つである。それ以前の著作、たとえば二つの『ドストエフスキー論』や『ラブレー論』には出てこない。
[2] 「求神主義」(богоискатедьство)は、本来、第一次ロシア革命(一九〇五―〇七)の敗北後に、ベルジャーエフ、メレシコフスキー、ローザノフ、セルゲイ・ブルガーコフらの自由主義知識人の間で起こった宗教哲学的思潮のことである。求神主義は、キリスト教の革新、宗教意識と理性の和解、宗教にもとづく新たな形の人間の生の変化・完成をめざしたので、筆者はその点にドストエフスキーの登場人物の志向との類似を見ているのであろうか。
[3] この一節は、ドストエフスキーが一八六〇年初頭から晩年まで書き残した一一冊の手帖の一一冊目「一八八〇―八一年の手帖」の中の「カヴェーリンに」という断章にある。前後の文脈から、「大審問官」の章の雑誌発表後に記されたことに疑問の余地はない。
[4] 「争論(ルビ:コントロヴェルザ)」は本来「(神学的・スコラ哲学的な問題に関する)論争」を意味するラテン語(controversia)を起源とする語で、『カラマーゾフの兄弟』第三篇第七章の章題で用いられている。「proとcontra」は「肯定と否定」を意味するラテン語で、同じく『カラマーゾフの兄弟』第五篇の総題になっている。

(訳:杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学)
Title: О знаянии Достоевского в XXI веке
Author: Борис Тихомиров

危機の時代のドストエフスキー ------ エレーナ・ノヴィコワ

 もともと経済学徒であったロシアの宗教哲学者セルゲイ・ブルガーコフは、自著でカール・マルクスの遺産を取り上げるとき、いつも決まってマルクスとドストエフスキーを対置したものである。
 この対置の根底に横たわっているのは、世界のどこに人間を位置づけるかという問題である。ブルガーコフの考えによれば、マルクスの経済学説は当初より、その唯物論的性質のゆえに、人間と彼を取り巻く全世界との間の解決しがたい対立という悲劇的立場を自らに課している。マルクスが喧伝する、自然、社会、他者に対して人間が強制力を振るうことを諒とする立場は、まさにここに由来する。
 ブルガーコフがカール・マルクスの「経済学的唯物論」に対置したのが、神の被造物としての人間と神の創りたまう世界との調和を説くドストエフスキーの教えである。哲学者の考えによれば、作家はこの教えをゾシマ、アリョーシャ・カラマーゾフ、マリア・レビャートキナ〔『悪霊』〕像に肉化しているのである。
 ロシア文明はこれまでカール・マルクスの経済学説によって規定されてきた。だが、ひょっとすると、実際、セルゲイ・ブルガーコフにならって、ドストエフスキーの声にも耳を傾けるべき時が来ているのではないだろうか?
 ドストエフスキーの「五大長篇」のうちの最後の二作は、若い世代の問題、「未成年」と「兄弟」の問題、真の理想を心から希求する「ロシアの子供たち」の問題に捧げられている。
 その意味でドストエフスキーの創作の中で特別な位置を占めているのが、長篇『未成年』である。アルカージー・ドルゴルーキーは真に「マルクス主義的な」思想――ロスチャイルドの思想――で武装して、大人の生活に乗り出していく。ところが、ドストエフスキーの世界にあっては、この思想は根本的に「未成年的」なものにすぎない。小説のプロットは、アルカージー・ドルゴルーキー(彼は、現代世界に生きる人にとって、一見いとも有望そうに見える思想で武装している)が「人々のもとへとおもむき」、「人生に飛びこんでいく」姿を描くが、それはひとえに真の価値体系を獲得するためである。ドストエフスキーは若き主人公の前に二つのモデル、ヴェルシーロフとマカール・イワーノヴィチという彼の二人の父が体現する二つの価値体系を呈示する。つまり、「世界市民」としてのロシア知識人が歩んだ精神的道程と、正教を体現する人間が歩んだ精神的道程である。かくて、ドストエフスキーによれば、現代世界にとって真に価値ある理想とは、インテリゲンツィアの理想と宗教的理想であり、ほかならぬこの両者の間でしか、価値ある真の選択はなしえないのである。
 ドストエフスキーの最後の偉大な長篇『カラマーゾフの兄弟』では、金銭と金儲けの思想は、小説の若き主人公たちがそれとの対峙によって自己確立をはかる、ありうべき価値体系から除外されているというだけにとどまらず、事実上、それはまったく欠落している(これは、フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフがグルーシェニカのために用意した札束のおそろしくイロニークな描写を除外しての話であることは言うまでもない、この描写には、ドストエフスキーの最後の長篇における「ロスチャイルド」問題群の意義と位置づけがきわめて特徴的かつ的確に示されている)。
 新しいロスチャイルドになりたいという願望――この願望がこれまでわがロシア文明を規定してきたことはまぎれもない事実である――は、単に現代人の精神的未熟を証しだてているにすぎないと、ドストエフスキーは考える。それに対して今度は、セルゲイ・ブルガーコフが、ドストエフスキーを後を追って、現代人がマルクスに従って自己を解釈し続けるかぎり、危機は不可避の運命だと考えるのである。

(訳:杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学)
Title: Достоевский в эпоху мирового экономического кризиса
Author: Елена Новикова

目的としてのドストエフスキー-------- リュドミラ・サラスキナ

 「ドストエフスキーはもうすみずみまで研究されつくしているのではありませんか」――私は何とも答えに窮する質問をこれまで幾度となくされたものである。そんな場合、私はいつもこう答えることにしていた。ドストエフスキーの本当の理解はたった今始まったばかりです、なぜなら、ロシア古典作家の偉大な作品の真の読解をかつて妨げていた様々な足枷がようやく解けたのですから。
 だが、どの時代にもその時代なりの足枷が存在する。思想的には無内容、倫理的には無節操、美学的には雑食性といった現今の風潮を目の当たりにするにつけ、そんな答えでは精神的には不誠実だし、言葉の上では不正確なことになりかねないと言われれば、確かにその通りだと納得せざるをえない。新しい状況になっても、さしあたりはある記号が別の記号に入れ替わっただけで、ドストエフスキーの測り知れない精神的自由と底知れない深淵性を、状況は相変わらず扱いかねている。ドストエフスキーをめぐる論争が、ものごとの些事ではなく、本質それ自体に関わることはいつの時代でも変わらない。
 人々はいつもドストエフスキーの中に真実=正義の可能性を探し求めてきた。「ネクラーソフを超え、プーシキンを超え、民衆を超え、ロシアを超え、森羅万象を超える」あの真実=正義である。だが、それと同時に人々は効用の可能性も探し求めてきた――それはまるで、具体的な課題の数々、政治的、国家的あるいは宗教的な課題の遂行にドストエフスキーをあたらせ、その任務に差し向けることができるといわんばかりであった。ソヴィエトの政治宣伝が推奨したのは、資本主義体制に対する有能な論敵、公式的宗教とロシア貴族に戦いを挑む闘士、自由主義および小市民(プチブルジョワ)的なユートピア社会主義への批判者としてドストエフスキーを遇することであった。ドストエフスキーを知ることは有益でもあり、不可欠なことでもあると考えられたが、それは民衆にとってではなく、イデオロギー戦線で階級の敵との闘争に従事するインテリゲンツィア層にとってであった。ドストエフスキーが自ら引き受けることになろうとはよもや思いもよらなかったようなくさぐさが、彼のはたすべき任務と見なされたのである。
 今や彼に期待されているのは、教導者、指揮者、精神的指導者としての役割である。ドストエフスキーならば、読者の手を引いて、どこかの終着点に先導して行ってくれるだろう、というわけだ。それというのも、その終着点はどうやらドストエフスキーの読者が目指すべき真の目的地のように考えられているからである。作家は予定のルートを律義に踏破した後で、終着点に向かって出発せんとする新たな一団を先導するために、ふたたび出発点に戻ってもかまわない。なぜならば、一度、終着点にたどり着いた人々は、もう決して彼を必要としないからである。
 ドストエフスキーの中に手段――作家の思想や言葉のはるか彼方に存在する結果を達成するための効果的にして強力、確実な手段――しか見いだそうとしない人もいる。
 だが、ドストエフスキーは手段ではない。ドストエフスキーは目的である。
 ただこのことによってしか、文学史家における、そして何より文学それ自体におけるドストエフスキーへの一心不乱の熱中を(「偏執」でさえも)正当化することはできない。目的と見なすことで初めて、ドストエフスキーは、彼を読み、彼について考え、書く人に対して、本質的なことを明らかにする。彼本来の価値、最高価値において理解することで初めて、彼は人間を実際に甦らせることができる真の創造力、変容力を備えたものとして立ち現われるのであって、だんじて当座必要な――「最新の」と言いたければ、それでもかまわないが――使用説明書としてではない。
 卒然と世を去り、わが身もろとも偉大な秘密を持ち去ったプーシキンに、ドストエフスキーはまさに目的として相対した。「かくして私たちは今や彼亡き後にこの秘密を解こうとしている」(1)。天才の秘密を解明するというこの人間の使命は、ドストエフスキーの目には小さなものとは映じなかった。どんな人間、もっとも惨めな人間でさえも、彼もまた秘密である以上、その謎を解明するという課題はドストエフスキーの目には屈辱的なことと映らなかった。まだ若かった少年時代に、彼は人間の秘密について予言的な言葉を口にしている。「人間は謎です。その謎は解かなければなりません。そして、その謎を解くために、たとえ一生を費やすことになろうとも、時を空費したなどと言ってはなりません。僕はその謎に取り組んでいます、なぜなら僕は人間でありたいと願うからです」(2)。これに関して、私は次のことを指摘しておきたい。ドストエフスキーがこの時、念頭に置いていたのは、ロシア人の秘密、感覚的な自然人の秘密、あるいは神の恩寵にあずかる宗教人の秘密ではなかった。彼が信頼を寄せているのは、「人間」という言葉の普遍的な意義、そのもっとも一般的な意味――知性、自由意志、言語能力を授けられた被造物中の至高の存在、一人ひとりの人間――だったのである。

訳註
[1] 引用は、一八八〇年六月八日にロシア文学愛好者協会の大会でドストエフスキーが行った、いわゆる「プーシキン講演」の結語による。この講演原稿は、『作家の日記』一八八〇年八月第二章に発表された。
[2] 一八三九年八月十六日付の兄ミハイル宛の書簡。ドストエフスキーは当時一七歳、工兵学校在学中であった。

(訳:杉里直人:すぎさと なおと・ロシア文学)
Title: Достоевский как цель
Author: Людмила Сараскина

ドストエフスキー最期の日々 ----ナターリア・アシンバーエワ

Title: Последние дни жизни Достоевского
Author: Наталия Ашимбаева

 一八七八年一〇月五日、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは家族とともに〔ペテルブルグの〕クズネチヌィ横町五番地、古寺ウラジーミル聖母像教会の傍にある家[1]に引っ越した。ここに彼は二年三ヵ月二三日間暮した。この住居でドストエフスキーは長篇『カラマーゾフの兄弟』を執筆し、『作家の日記』に取り組んだ。彼の最後の数年は創造力の力強い飛翔の時期である。大作家と世にあまねく認められ、栄光の絶頂にあった一八八一年一月二八日に、ドストエフスキーはこの世を去った。一月の最後の数日、ドストエフスキーは『作家の日記』に取り組んでいる。一月二九日にはプーシキンの夕べに参加する心づもりであった。多くの人に会い、さかんに手紙のやりとりをしていた。一家は『カラマーゾフの兄弟』の原稿料を元手に新しい領地を購入する計画を立てている。何一つとして悲劇的な破局を予告するものはないかのようであった。
 一月二五日から二六日にかけての深夜、ドストエフスキーの咽喉から少量の出血があった。こんなことはよくある些細な出来事にすぎず、何も恐ろしいことは起きないように思われた。だが一月二六日午後四時ごろふたたび出血し、それは大喀血となった。かかりつけの医者Ja・B・フォン・ブレッツェルが呼ばれた。診察中に三度目の喀血が起こる。それはあまりにひどく、ドストエフスキーは意識を失う。病気の診断・治療をめぐって医師たちによる話し合いが持たれた。肺動脈の破裂という診断であった。晩に妻のアンナ・グリゴーリエヴナは司祭を呼ぶ。ドストエフスキーは懺悔をし、聖体を拝領する。
 一月二七日は比較的平穏にすぎていき、医師も、絶対安静の指示を守っていれば、恢復するかもしれないとの期待を口にする。印刷所から『作家の日記』の最後の数頁が届く。アンナはドストエフスキーと一級に校正刷りに目を通している。
 一月二八日早朝、ドストエフスキーは、すぐにも死ぬだろうということがはっきりわかったと妻に告げて、〔一八二〇年代刊行の〕旧版の福音書を当てずっぽうに開いてみてほしいと頼む。それは彼が徒刑地で所持していた福音書で、三〇年来、肌身離さず持っていたものであった。アンナが読んだのは、「イエス答へて言いたまう。『今は、とどむるなかれ、われら斯く正しき事をことごとく爲遂ぐるは、當然なり』(『マタイによる福音書』三章一五節)という一節である。かくて、深遠な意味に満ちた福音書のこの言葉とともに、ドストエフスキーの生涯の最期の一日が始まった。
 日中に何度か喀血が繰り返され、衰弱はひどくなっていく。新聞各紙には、ドストエフスキーの病状を憂慮する報道記事が出る。友人、知人が見舞いに訪れ、彼の健康状態をたずねる。午後六時、ドストエフスキーは子供たちに祝福を与え、彼らに別れを告げる。八時ごろ、ウラジーミル教会の司祭で、ドストエフスキーの懺悔聴聞僧ニコライ・ヴィロスラフスキー神父が臨終祈〓を読み、その最後の数言とともに、八時三六分、臨終の時がおとずれる。
 *
 ロシアがたどるであろう悲劇的な道程の偉大な予見者、フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーの生涯の最期の数日間には、さながら彼自身の長篇小説で描かれているかのような謎めいた事件が、それもすぐ近くで起こっていた。一八八〇年一一月に、「人民の意志」党執行委員会のメンバーで革命家のアレクサンドル・バランニコフ[2]が、ドストエフスキーが住んでいた住居〔二階一〇号室〕の向かいに越してきた。『カラマーゾフの兄弟』が書き継がれていた場所の間近に、非合法のアジトがあったのだ。修道院を出たアリョーシャ・カラマーゾフが、革命に身を投ずるためには、階段の踊り場を超えて、ほんの数歩踏み出すだけでよかった。一月二五日から二六日にかけての深夜、病気の最初の発作がドストエフスキーを見舞ったころに、隣室では家宅捜索が行われ、バランニコフが逮捕された。翌日の四時に、共犯者がもう一人、一一号室での待伏せの網にかかった。ちょうどそのころ、ドストエフスキーの病状は急激に悪化する。
 ドストエフスキーはこの事件を知っていただろうか、事件は彼の健康状態に影響を与えただろうか、二つの出来事のこの奇妙な隣接は偶然であろうか? 研究者たちは様々な推測をしている[3]が、最終的な答えは出ていない。ドストエフスキーは行住座臥、精神力と創造力のすべてをかけて、「ロシアの子供たち」の運命について、彼らの最大限要求主義について考え続けた。テロルと革命を非難しこそすれ、思想の子供たちの苦悩を共に苦しむことを彼は拒まなかった。ドストエフスキーがこの世を去ろうとしていた数日の間に、「人民の意志」党の崩壊が始まった。その少し先、三月一日にアレクサンドル二世は殺害された。革命家たちを待ち受けているのは、死刑、懲役、監獄での死であった[4]。
 一月二八日、ドストエフスキーはこの世を去ったが、彼の作品、彼の予見は人類全体の大いなる共有財産となったのである。
【P227キャプション ドストエフスキーの墓碑】
訳註
[1] ドストエフスキーは文壇デヴュー直後の一八四六年にも、この家の九号室に一時期住んで、第二作『分身』を執筆した。現在、ここはドストエフスキー博物館になっている。
[2] バランニコフは軍官学校を中退後、ナロードニキ運動に参加、その後、「人民の意志」創立に参加し、憲兵隊司令官の暗殺事件の犯人の一人、皇帝お召列車爆破事件などに関与し、「復讐の天使」という綽名で呼ばれていた。彼は一八五八年生まれで、一八八一年当時二二歳、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが親しくなる少年たちとほぼ同年代ということになる。
[3] この問題に関して、日本語で読めるものとしてエドワード・ラジンスキー『アレクサンドルⅡ世暗殺』(望月哲男/久野康彦訳、NHK出版、二〇〇七年)がある。彼は第一五章(下巻三〇六―三三一頁)で大胆な推測を行っている。
[4] 皇帝暗殺犯五名は四月三日に死刑になった。バランニコフは逮捕後、一八八二年に無期禁固の判決を受け、ペトロ=パウロ要塞監獄アレクセイ半月堡に収監され、間もなく獄死した(没年不明)。最重要国事犯を収容するアレクセイ半月堡は、奇しくも一八四九年にペトラシェフスキー事件で検挙されたドストエフスキーが収監された監獄でもあった。
(訳=杉里 直人:すぎさと なおと・ロシア文学)

Title: Последние дни жизни Достоевского
Author: Наталия Ашимбаева