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Top Page >  DSJ Journal >  Dostoevsky Bulletin vol.01 >  書評・映画評その他

書評・映画評その他


コンスタンチン・バルシト『ドストエフスキーのデッサンとカリグラフィー イメージから言葉へ』
(ベルガモ、レンマ出版、2016年)
(Константин Баршт, Рисунки и каллиграфия Ф.М. Досто-
евского. От изображения к слову, Бергамо, Lemma Press, 2016)              

番場 俊

 全集の頁をめくって活字を追っている私たちの眼の前に突然現れてきて驚かせたり、関連書籍のカバーや函のデザインに好んで使われたりする、ドストエフスキーの創作ノートの写真――精神異常すれすれの主人公たちが時と場所を選ばずにくだを巻き、叫んだり泣いたりに忙しいといったドストエフスキーの通俗的イメージからすれば仰天してしまうような、几帳面きわまりない習字のお手本のような筆跡や、なんだか間の抜けた愛嬌があって脱力してしまう人物の顔の絵――ドストエフスキーの愛好家であればとうの昔から馴染んでいた創作ノートのデッサンやカリグラフィー(習字)についての本格的な研究が、実はつい最近までほとんどなされていなかったというのはやはり驚きである。評者がはじめて眼にしたのは1996年か1997年、締切原稿で『白痴』論を書くために呻吟していたときだった。図書館で見つけたザハーロフ編『ドストエフスキー研究の新側面』(ペトロザヴォーツク、1994年)中の論文、コンスタンチン・バルシト「F.M.ドストエフスキーの「カリグラフィー」」である*1。バルシトの仕事との最初の出会いだが、その後しばらくして大学に就職し、「校費」なるものではじめて買った本のなかに、同じバルシトのモノグラフ『ドストエフスキーの手稿のデッサン』(ペテルブルク、1996年)*2があったのもよく覚えている。校費で買った、ということはゆくゆくは図書館の備品になるわけで、線を引いたり書き込みをしたりすることができない。私費で買って自分のものにしておくべきだった……と後悔したのが後の祭りで、その後、思い出すたびに探したのだが、国内の書店でも海外のWebサイトでも、この本が出回っているのを見たことがない。ドストエフスキーのデッサンやカリグラフィーについては、これが唯一の研究書だったということになるのだろう。これを買うような人はよっぽど物好きな専門の研究者で、だからなかなか手放さないのだろう……と、のんきにもそのくらいに思っていた。
 そうではなかった。実際には、その後も精力的な研究が着々と続けられていたのである。評者の度肝を抜いたのが、2005年にヴォスクレセーニエ社から刊行された『ドストエフスキー18巻全集』第17巻だ*3。「デッサン Рисунки」と題されたこの巻は、デッサンやカリグラフィーが少しでも含まれる創作ノートのすべての頁を網羅するのみならず、ドストエフスキーがおしゃべりしているあいだに描いたいたずら書きにいたるまで、664点にもおよぶ写真で紹介するものだった。註を担当したのはやはりバルシトである。さあここからどんな成果が出てくるのかと期待したが、豪華本すぎて個人でも地方国立大学の予算でも買えず、北大の図書館を訪れたときにでも眺めるほかない垂涎の的にとどまった。
 それからまた十余年、設立されたばかりの日本ドストエフスキー協会に送られてきたのが、今回紹介するコンスタンチン・バルシト『ドストエフスキーのデッサンとカリグラフィー イメージから言葉へ』である。書評用に送っていただいたのはロシア語版と英語版だったが、イタリア語版もあるらしい*4。一目見て、言葉を失う。電話帳よりもはるかに大きな、ずっしりと重いハードカバーで、これまでのどの版よりも美しく印刷されたドストエフスキーの創作ノートの写真は(なんと!)原寸大だという。これに似た近年の試みとしては、ドストエフスキーが所有していた福音書の全頁を原寸大カラー写真で再現し、B.N.チホミーロフの詳細な註をつけた二巻本(『ドストエフスキーの福音書』、モスクワ、2010年*5)があるが、本書は書物としての物質的な存在感でそれをはるかに凌ぐ。まさに圧倒的というほかはない。
 内容について、著者のバルシトが語っているところを参照するなら*6、「私の以前の仕事をアップデートした豪華版(an update, deluxe edition of my earlier work)」ということになる。実際、本の構成や論の進め方などは、1996年のモノグラフや2005年の全集とよく似ていて、いずれも、工兵学校在籍時の製図経験あたりから話をはじめ、あちこちに散見されるベリンスキーやトゥルゲーネフといった著名人の似顔絵をエピソードをまじえながら紹介し、つづけて『罪と罰』や『白痴』といった作品ごとに創作ノートの絵とカリグラフィーを一つ一つ検討していくかたちになっている。よく見れば、2005年の全集版はもとより、1996年のモノグラフからほぼそのまま移した文章も散見されるから、「アップデート」という言い方は間違いではない。しかし、さすがに20年を優にこえる研究の集大成だから、記述の厚みはそうとう増しているし、以前の版とは異なる解釈も随所に散見される。以下、評者の眼についた一例だけ挙げておこう。

図1

 図1は『罪と罰』と『白痴』のプランが書かれた「創作ノート No. 3」と呼ばれるノートの34頁、『白痴』の最初期のプランを書き込んだものだ。アカデミー版全集でも図版として紹介され(第8巻、357頁)、いまではあちこちで見ることのできる有名な一葉だが、真中に描かれたこの人物が誰であり、そのまわりにごちゃごちゃと書き込まれたテクストはいったい何かというと、自信をもって答えられる人は少ない。アカデミー全集版、バルシトの1996年のモノグラフ、2005年の全集版、2016年のレンマ版を比較してみて分かるのは次のことだ。――まず、アカデミー全集版の写真はページの全体ではなく、縦長のノートの真ん中2分の1ほどをトリミングして横長にしたものだということ。写真の右下で逆さになっている「34」という数字はアンナ夫人が整理のために赤鉛筆で書き込んだものであり、つまりこの頁は顔の天地が逆になっているということだ(2005年の全集版ではそのまま逆さに掲載されている)。さらに絵とテクストの配置をよく見れば、「まず、絵が何も書いていない紙に描かれ、テクストはその後で(おそらく、絵を描き終わった直後に)書かれている」ことがわかる(『ドストエフスキーの手稿のデッサン』、107-108頁)。ドストエフスキーはまず顔の絵を描いてキャラクターを構想しようとしていたのであり、テクストはその後に現れているのである。ではそのテクストはというと、アカデミー版全集の第9巻、163-165頁に活字化されており、ノートでは6つのブロックに分かれて様々な向きから書き込まれている。その配置のでたらめさ加減を示すために、図2では、天地をノートの向きに直し、アカデミー版のテクストに従った番号をテクストのブロックに振ってみた。

図2

①の冒頭は「車室。知り合いになる」と書き出されているから、ムイシキンとロゴージンがペテルブルク―ワルシャワ間鉄道で出会う場面として、完成稿の冒頭に活かされた場面ということになる。では真ん中に描かれた人物はムイシキン公爵かというと、1996年のモノグラフでも2005年の全集版でも、バルシトは、これは『白痴』の最初期の構想に現れる主人公――強烈な情欲をもち、途方もなく傲慢な人物(アカデミー版全集第9巻、141頁)――ではあっても、完成稿で私たちが知っている「本当に美しい人間」ムイシキンではありえないという。最初期の《白痴》のキャラクターは完成稿ではむしろロゴージンに受け継がれたのであり、この絵にふさわしいのは完成稿のロゴージンの相貌描写だというのだ。当該箇所を最新の亀山郁夫訳で引用してみよう。「さほど上背のない、年のころ二十七歳くらいの青年で、縮れた髪はほとんど真っ黒といってもよく、グレーの目は。小さいながら火のような輝きを放っていた。鼻は横にひしゃげ、頬骨が張り、薄い唇は何やら厚かましい、人をあざけるような、悪意すら思わせる笑みをたえず浮かべていた。しかしその額は高く秀でて美しくかたちが整い、必ずしも品よく発達したとはいえない顔の下半分の欠点を埋め合わせていた」。
 それでは、本書、2016年のレンマ版はどうか。結論はほぼ変わっていないが、微妙にそれを修正するような留保が加えられている。創作ノート34頁の顔の絵に先行し、34頁の顔と一つのシリーズをなすと考えられる5つの顔(創作ノート7、9、12、13頁)を検討したバルシトは、『白痴』の最初期のプランに取り組んでいたドストエフスキーが、主人公=「白痴」という規定と、主人公=「聖痴愚(ユロージヴイ)」という規定のあいだで揺れていた事実を考慮して、これが、当時予知者として有名だったモスクワのユロージヴイであり、1859年にドストエフスキー自身が訪問し、『ステパンチコヴォ村の住人』の冒頭や、『悪霊』第二部第五章「祭りの前」に登場するユロージヴイのモデルにもなったイワン・ヤーコヴレヴィチ・コレイシャ(1780-1861)の顔であった可能性を示唆するのである。バルシトは、自らの仮説を補強するために、コレイシャの肖像を当時刊行されていた聖者伝から転載さえしている(図3)(『ドストエフスキーのデッサンとカリグラフィー』、181頁)。ただちに賛同するかどうかは別として、まことに大胆な仮説である。ドストエフスキーの草稿研究が、いまだに未知の発見に満ちた刺激的な研究分野であることを、雄弁に物語る一例だといえよう。私たちはまだ草稿の絵の読み方を知らないのである。

図3

 バルシトの研究が切り開いたもう一つの領域であるカリグラフィーについても触れておきたい。『白痴』の第一部第三章、エパンチン将軍とガーニャの前で、ムイシキンが自らの習字の腕前と蘊蓄を披露するところがある。きわめて理解しづらい箇所だ。――バルシトがすでに1996年のモノグラフで強調していたように、最初期の構想から最終稿まで変わらずに引き継がれた主人公の属性は、「白痴」という名前と「字がきれい」という二点だけであるにもかかわらず、ムイシキン=能筆家というキャラクター設定は、この後、ほとんど忘れ去られてしまうのだから。そこに「ポゴージンの本」なるものが登場する。やはり亀山訳で引用すると、「こうした、ロシアの昔の僧院長や大司教といった人たちは、みんなこんなじつにみごとな署名を残しているんです。しかも、ときとしてほんとうにすぐれたセンスと、苦心の跡が見られるんです! お宅に、せめてポゴージン版くらい置いてありませんか」。話題になっているのは、たったいまムイシキンが書いてみせた一行、《神の僕なる僧院長パフヌーチーみずから署名す》だ。

図4

 この「ポゴージンの本」がどうやら曲者なのである。バルシトは、アカデミー版全集の註をはじめとする従来の見解を踏襲して、これは、モスクワ大学ロシア史講座の教授であったM・P・ポゴージンが、スラブ・ロシア古文書学の基礎資料として、9世紀から18世紀にいたる手稿の複製44枚を集めた『スラヴ・ロシア古代書体見本集』第1~2帖(1840-1841年*7 )の第2帖18であろうとしている(393頁、図4)。だが、これについては、G.N.クラピーヴィンによる強力な反論と、実に刺激的な謎ときが提起されているのである*8。
 かいつまんで紹介しよう。彼は、精力的な文献調査をもとに、「ポゴージン」と「パフヌーチー」という二つの固有名に関する従来の注釈に異議を申し立てる。「ポゴージンの本」としてアカデミー版全集が挙げるのは、『スラヴ・ロシア古代書体見本集』のなかで唯一署名が添えられた一八世紀の僧正ミトローファンの遺言状だ。だが、名前も時代も表現も違うそれが、ムイシキンの言及する署名だとどうしていえるのだろう? 前者は《ボロネジの主教ミトローファン手ずから署名す своею рукою подписал》、後者は《神の僕なる僧院長パフヌーチーみずから署名す руку приложил》だから、使われている言語表現も異なっている。クラピーヴィンによれば、「修道院長パフヌーチー」に関しては、すでに主人公自身が誤りを犯しているのである。ムイシキンは「修道院長パフヌーチーは十四世紀の人で、ヴォルガ河畔、いまのコストロマー県の修道院長」だというのだが(第一部第五章)、調べてみると、実在のパフヌーチーはヴォルガ河畔から遠く離れたヴィガ河畔の修道院長だったことが分かる。つまり、ムイシキンのいう「修道院長パフヌーチー」は14世紀には実在しないのである。そこでクラピーヴィンは大胆な推理に乗り出す――ムイシキンの誤りは意図的なものに違いない(当時の教養ある読者なら気づいたはずだ)。それは、別の世紀の別の「パフヌーチー」への参照を暗黙のうちに促すものではないか? そこで彼が注目するのは、工兵学校時代の若きドストエフスキーの創作意欲を強く刺激したプーシキンの史劇『ボリス・ゴドゥノフ』(1831年)である。そこにはこんなくだりがある。

 総主教 では彼は逃亡したのじゃな、修道院長?
 修道院長 逃亡いたしました、総主教どの。もう今日で三日目でござります。
 総主教 無法者奴が、罰当り奴が! していかなる素性の者じゃ?
 修道院長 ガリチヤの貴族の子弟、オトレーピェフ家の生れにて、場所は定かでありませぬが、幼時より剃髪いたし、スズダリのエフィミエフスキイ修道院に住みおりました。その後そこを去り、あちこちの僧院を渡り歩き、最後にわがチュードフ僧団に参りました。私は彼がまだ、齢若く未熟であるのを見て、寛仁柔和な修道僧、ピーメン神父にその監督を委ねました。それからは甚だ読書きをよくするようになり、年代記も読み、聖人を称える讃美歌も作りました。したが今となって見ますれば、彼が読書きの力は神様から授ったものではなかったのでござります……
総主教 いやその物知りという奴が困り者じゃ! しかも何ということを考え出したのじゃ! モスクワで皇帝になろうだと!(佐々木彰訳)

 この「修道院長」が、チュードフ修道院長パフヌーチーなのである。彼が庇護していたオトレーピェフとは何者かといえば、もちろん、ロシア史で「動乱(スムータ)」と呼ばれる17世紀初めの政治的混乱の主人公だ。16世紀末、イワン雷帝とその息子たちの死によって王朝が断絶し、貴族のボリス・ゴドゥノフがツァーリに推挙される。ほどなくして民衆のあいだに不穏な噂が広まる――ボリスが暗殺したはずの皇子ドミトリーは実は生きていて、われわれを圧制から救うために戻ってこられるのではないか? 事実、ほどなくして皇子ドミトリーを名乗る男がポーランドにあらわれ、民衆の支持を集めてモスクワに攻め入り、王座を簒奪する。この僭称者、偽ドミトリーこそ、チュードフ修道院から逃亡した破門僧、グリゴーリー(グリーシャ)・オトレーピエフだったのである。そのとき、チュードフ修道院長パフヌーチーはどうしたか? 僭称者を拒んで逮捕された総主教ヨヴと違って、彼はすぐさま偽ドミトリーを承認する。過去に関して口をつぐみ、僭称者への献身を進んで表明することによって、パフヌーチーはわが身を救ったのであり、いわばツァーリの僭称に同意の署名をしたのである。《神の僕なる僧院長パフヌーチーみずから署名す》の「みずから署名す приложить руку」とは、だから、「(なにかに)署名する」ことと同時に、「保身のため僭称者に加担する」ことでもあったわけだ。
 その僭称者グリゴーリーの筆跡を、人は「ポゴージンの本」で見ることができたのである。クラピーヴィンが注目するのは、これまで見過ごされてきたポゴージンの別の書物だ。ポゴージンが編纂した『ロシア歴史アルバム』(1853年*9 )の第14葉には、僭称者の四つの署名の複製が掲載されている(図5)。ロシア語、ポーランド語、ラテン語で書かれたこれらの署名は、先の修道院長の言葉でいえば、僭称者の「神様から授ったものではない」読み書き能力を証しする驚くべき歴史資料である。19世紀の読者は、いわば、皇帝の署名を偽造しようとする呪われた破門僧の手の震えを、印刷された頁の上でまざまざと感じることができたのである。

図5

 こうしてみると、《神の僕なる僧院長パフヌーチー》の署名をにこやかに書き写すムイシキン公爵の振舞いが、にわかに不穏なものにみえてくる。他人の署名を偽造する僭称者グリーシャ・オトレーピエフの追従者パフヌーチーの署名を彼は偽造している。それはムイシキンの「僭称への関与」だった――それがクラピーヴィンの結論なのである。だが、グリーシャ・オトレーピエフがツァーリを僭称していたとすれば、ムイシキンは何を僭称しようとしていたのだろう? ひょっとして、キリスト公爵……?
 以上、クラピーヴィンの論文を紹介してきたが、念のためにいえば、評者はこの「謎とき」に全面的に賛同しているわけではない(14世紀のパフヌーチーを差しおいて17世紀のパフヌーチーに注目する論の進め方には飛躍があるように思われるし、《神の僕なる僧院長パフヌーチーみずから署名す》にぴったりの表現が見当たらないのは、『スラヴ・ロシア古代書体見本集』も『ロシア歴史アルバム』も同じだ)。個々の謎ときの妥当性を問題にしているのではなくて、バルシトが先駆者として切り開いたドストエフスキーのカリグラフィー研究分野の重要性と豊饒性を強調したいのである。字のきれいな作家ドストエフスキーは、字のきれいな清書屋の自己意識から、その作家としての活動をはじめたのであり(「仮に誰も彼もが創作を始めたら、いったい誰が清書するんです?」『貧しき人々』6月12日付、安岡治子訳)、アンナ夫人の速記による口述という執筆スタイルを確立したあとも、創作ノートでは夜な夜な文字への愛に耽溺していたのであって、文字に対する問いが文学に対する問いに深い影響を与えていなかったなどということはありえない(実際に現代ロシアの哲学者ポドロガは、両者を身体的なミメーシスという概念でつないで、ドストエフスキーの創作プランの意義を明らかにしようとしている*10)。《文学的グラフィックス》に注目することで、バルシトはドストエフスキー研究の新たな流れを作り出したのだという、本書序文のステファノ・アロエの言葉は、けっして誇張ではない。



*1 К. А. Баршт, “«Каллиграфия» Ф. М. Достоевского”, В. Н. Захаров, ред., Новые аспекты в изучении Достоевского, Петрозаводск, Изд-во ПетрГУ, 1994.
*2 К. А. Баршт, Рисунки в рукописях Достоевского, СПб., Формика, 1996.
*3 Полное собрание сочинений Ф. М. Достоевского в XVIII томах, т. 17, М., Воскресенье, 2005.
*4 Константин Баршт, Рисунки и каллиграфия Ф. М. Достоевского. От изображения к слову, Бергамо, Lemma-Press, 2016; The Drawings and Calligraphy of Fyodor Dostoevsky: From Image to Word, 2016; Disegni e calligrafia di Fëdor Dostoevskij: Dall’immagine alla parola, 2017.
*5 Евангелие Достоевского, т. 1-2, М., Русский Мир, 2010.
*6 The Bloggers Karamazov: https://bloggerskaramazov.com/2018/02/23/drawings-and-calligraphy/ (accessed Nov. 26, 2018)
*7 М. П. Погодин, Образцы славяно-русского древлеписания, тетради 1-2, М., В Тип. Ноколая Степанова, 1840-41. 評者はかつてこれを見るためにわざわざペテルブルクの図書館まで行ったのだが、現在ではGoogle Booksで簡単に見ることができる。
*8 Г. Н. Крапивин, “К чему приложил руку игумен Пафнутий?”, Русская литература, 2014, № 4, с. 145-151. この論文の存在は齋須直人氏の論考に教えられた(「ムイシュキン公爵の理念的原像としての聖人ザドンスクのチーホン――子供の教育の観点から」、『ロシア語ロシア文学研究』第48号、2016年、127-128頁、注11)。
*9 М. Погодин, Русский исторический альбом, М., В Тип. Степановой, 1853, лист 14. この書物もGoogle Booksで見ることができる。
*10 В. А. Подорога, Мимесис: Материалы по аналитической антропологии литературы в двух томах, том 1, Н. Гоголь, Ф. Достоевский, М., Культурная революция, Логос, Logos-Altera, 2006, с. 347-360.

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アレクサンドル・ソクーロフ「ファウスト」

『ファウスト』(Faust)は、アレクサンドル・ソクーロフ監督が2011年に制作したロシア映画。第68回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。審査員長D・アロノフスキーは「これまで見たことのない、できれば再びは見たくない世界にいざなってくれる映画」と評した。
アイスランドのファウスト  
ーアレクサンドル・ソクーロフ『ファウスト』を観る  
亀山郁夫(『世界が終わる夢を見る』より)

アイスランドのファウスト  
ーアレクサンドル・ソクーロフ『ファウスト』を観る  亀山郁夫

 なぜ、人は『ファウスト』の物語に惹かれるのか?
 人は、という主語がふさわしくなければ、なぜ、芸術家は、『ファウスト』に惹かれるのか?
『ファウスト』には、天才的と呼ばれる芸術家のナルシシズムをそそる何かがある。
映画のジャンルでは、F・ムルナウ、ルネ・クレールといった映画芸術の草創期の天才たちが、オペラのジャンルでは、グノー、ベルリオーズ、リスト、ボーイトら主にロマン主義の作曲家たちが、小説のジャンルでは、T・マン、ドストエフスキー、ブルガーコフらがこのテーマに果敢に立ち向かってきた。
 答えは、それなりに用意できる。天才、凡人を問わず、永世と快楽は、死すべき人間の永遠の夢であるし、あるいは、現世的な権力がめざす最後の到達点といっていい。その到達点をめざし、虚しく生命力を枯らしていくのが、凡人の定めであるなら、その見果てぬ夢をどこまでも見続けることが、芸術家にとっての最大の励ましなる。では、ソクーロフが『ファウスト』に託した天才の運命とはどのようなものだったのか。
アレクサンドル・ソクーロフもまた、先人の多くの芸術家たちと同様、ありとあらゆる知を渉猟したあげく、その無意味さを悟った人間の絶望という主題を基本に置いている。ファウストの探求心は、ついに、人間の肉体のなかに魂の実体を探しもとめるという究極の段階に来ており、そこから先はもはや神の恩寵にすがりつくしかないぎりぎりの状況にあった(「何もかもはかない、悪臭を放つ」)。
 他方、ゲーテのファウストは、「私のなかには二つの魂がある」という言葉が示すように、その絶望からの出口をはっきりと見定めていた。その二つの魂とは、「欲望をむきだしにし」、現世にしがみついて生きようとする魂と、「高く地上から飛翔して、天界のものたちに憧れる」魂である。そのファウストが、最終的に選んだ道こそが、前者、すなわち、人間として生命を生きつくし、人類とともに死ぬという覚悟だった。
 ソクーロフの『ファウスト』は、ゲーテの原作を自由に翻案しつつ、徹底した脱構築を志している。観客は冒頭から、その異様に猥雑なたたずまいに圧倒されるにちがいない。
 廃墟とも見誤りそうな町なかを、餓死寸前の状態でさまようファウスト。ゲーテの描くファウストには、巨人的ともいうべき圧倒的な精神のオーラが感じとれたはずだが、ソクーロフの描くファウストには、もはや英雄性やカリスマ性など微塵も感じられない。ソクーロフのファウストは、メフィストの巧みな誘導によってずるずると破滅の道に引きこまれる、受身の天才でしかないのだ。
衝撃的なのは、マルガレーテとの恍惚の眠りから覚めた彼の眼前に立ち現われる光景である。甲冑に身を包み、馬上の人となったファウストとメフィストの前から、緑の大地も水車小屋も失われ、「天国」と称される巨大な岩塊の原野が立ち現れる。メフィストはその地を、「地の果て」「無」の世界と呼ぶ。
 死後の世界に旅立ったマルガレーテを救うには、この「地の果て」にある地獄に赴かなくてはならない。敏感な読者なら、お気づきだろう。ソクーロフは、甲冑姿で馬上の人となった二人に『ドンキホーテ』の物語を二重写しにし、「永遠に女性的なもの」の象徴であるマルガレーテをドゥルシネア姫に変貌させている。
 突如、岩山の向こうから吹きこぼれる間歇泉と、そして遠くに仰ぐ氷河群。アイスランドの風景である! ファウストとメフィストのワルプルギス行をカットしたソクーロフの『ファウスト』には、極度に暗号化された「引喩」が潜んでいたことがここで明らかになる。それは、ほかでもない、「ロシアの負のファウスト」を描いたドストエフスキーの『悪霊』である。
 あらゆる悪に倦みつかれた主人公スタヴローギンは、少女を凌辱し、死に至らしめた後ヨーロッパ遍歴の旅に出るが、彼の旅の最終目的地がアイスランドだった。この神がかった天才と、マルガレーテを誘惑し、ついには死刑に追いやるファウストが二重映しになる。ヒントは、「間歇泉」をまのあたりにしたファウストが、自信に満ちあふれて「お前の正体はわかった」と叫び声を発する場面だろう。これは、まさに、スネッフェルス山の火口に立ったスタヴローギンが発した叫びでもあったにちがいない。
 大地の底から吹きこぼれる熱湯を前にしてファウストはみずからの天才を確信し、メフィストと袂を分かつ。岩塊の下からメフィストが吐く呪いの呻き「ここからどう出て行く?」も、天上からひびくグレートヘンの「どこへ行くの」の声も顧みられることはない。傲慢な哄笑とともにどこまでも「天国」をめざして突き進むファウストに狂気の影が忍び寄る。
「素質と精神さえあればいい。それで自由な地に自由な民を創れる」と豪語する彼を、眼前に広がる「虚無」の光景がみごとに裏切っているのだ。「ロシアの負のファウスト」は、アイスランド行からの帰還後、ロシアの田舎町で縊死を遂げるが、ソクーロフは、はたしてアイスランド後のファウストにどんな運命を用意していたのか。ことによると、これは、マルガレーテとの恍惚の眠りのなかでファウストが夢みた、未来のひとコマにすぎないのか。