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Top Page >  DSJ Journal >  Dostoevsky Bulletin vol.01 >  対談・鼎談 >  ドストエフスキーの世界性

ドストエフスキーの世界性


沼野充義 / 亀山郁夫(聞き手)

 ドストエフスキーの衝撃――西欧の場合
亀山 ドストエフスキーがこの世を去って一三〇年あまりの歳月が流れましたが、その間、歴史のそれぞれの節目でドストエフスキー回帰とも呼べる現象が起こってきました。それはおそらく日本だけの現象ではないと思います。最近では、アンドレ・グリュックスマンが、二〇〇一年の九・一一を契機に『マンハッタンのドストエフスキー』というドストエフスキー論を書きました。グリュックスマンの著作は、九・一一をドストエフスキーの文学の内在的意味に照らして比較考察したものというより、ロシアの思想史におけるニヒリズムの系譜といったところにより多く焦点が当てられていました。しかしともあれ、二〇世紀以降、世界の文化を担ってきた限りない人々の多くにとって、ドストエフスキーの文学が導きの糸としてあったことはまぎれもない事実です。その影響は、小説や批評のジャンルを問わず、映画、演劇さらには音楽にまで及んでいきました。例を挙げればむろんきりがありません。そこで今日は、ドストエフスキーに対するロシア外からの視点を、東欧・西欧・日本の三点測量によって見ていきたいと思います。決してドストエフスキー肯定に偏ることなく、逆にドストエフスキーにノーを突きつけた作家たちの系譜をもたどることで、世界的な視野からドストエフスキーの客観的な位置を見通すことができたら幸いです。では、沼野充義さんにお話しを伺います。
沼野 僕は元々ドストエフスキーには関心があり、大学の卒論でも『未成年』を取り上げましたし、それは後にロシア語で学会誌にも発表しています。ですから長い間に渡って読んできたのですが、それでもドストエフスキーの専門家であるとは言えません。ただ、ドストエフスキーを研究している人の多くは彼にのめり込んでしまい、彼しか見なくなってしまってしまいがちなので、少し違った視点から見ることも必要ではないでしょうか。ドストエフスキー研究に限らず、プロの研究者になるためにはどんなテーマでも三点測量が必要だと常に感じていまして、学生たちにもよくそういうことを言ってきました。つまり、我々は日本人だから、ロシア文学を研究する場合も常に日本人の視点からロシアを見るということは避けようがない。ただ、それだけだと日本とロシアの二点なのですが、そこに加えてもう一つの視点が欲しい。三点目が加わることによって、ものが立体的に見えてくるわけです。ですから今回も、少し違う視点からドストエフスキーを見るということが、僕の役割だろうと思っております。
 西欧におけるドストエフスキーという問題から始めましょうか。そもそもロシア文学がロシアの外で本格的に発見されたのは、一九世紀末くらいの時期です。決定的なことの一つは、フランスの元外交官でロシア滞在が長かったメルキオール・ド・ヴォギュエが『ロシア小説』(一八八六)という本を書き、そこで一九世紀の大作家たちを紹介したということでした。ヴォギュエはそこでドストエフスキーについては、「スキタイ人がやってくる。本物のスキタイ人が。彼は私たちの知的習慣のすべてをひっくり返してしまうだろう!」と言っているのですね。「ひっくり返す」と訳したのは、フランス語の原文ではrevolutionnerという動詞で、くるくる回す、ひっくり返す、つまりは「革命」revolutionを起こしてしまうということです。ですから当時の西欧にとっても、ドストエフスキーの発見とは、今までの知的秩序をひっくり返してしまう、革命を起こすような、何か圧倒的な衝撃があったのだろうと思います。
 ただ、西欧において英訳を中心とした訳が本格的に始まり広く読まれるようになるのは、二〇世紀の初めくらいからです。イギリスからコンスタンス・ガーネットという大変な翻訳家が出てきて、極めて質の高い訳業を大量に行いました。もっともガーネットの訳は、後にナボコフなどにはけちょんけちょんにけなされるわけで、まあ、彼女の筆にかかったら、トルストイもドストエフスキーも区別がつなない上品なヴィクトリア朝の英語になってしまう、などと言われることもありましたが、それにしても当時としては驚くべき質と量の仕事をこなし、それによって英語圏でも広く読まれるようになったのです。
 例えば、ガーネット訳の『悪霊』が初めて出たのは、一九一三年ですが、このときにはまだいわゆる「スタヴローギンの告白」の章はまだ入っていません。しかし、「告白」の全文が一九二二年にソ連で公開されると、西側でもすぐに注目され、亡命ウクライナ人のコテリャンスキーという人が、ロシア語に興味を持って彼に習っていたヴァージニア・ウルフと共訳で、ただちにこの章を英訳出版しています。こういう動きを見ると、ドストエフスキーはすでに当時の西側の読書人にとって強い関心を呼び起こす作家になっていたことは間違いありません。こうして作家としての彼の全貌は、その後欧米で広く知られるようになり、大きな影響を与えていくことになります。
亀山 ヴォギュエが「スキタイ人がやってくる」という表現で、何か全体的な力で迫ってくるドストエフスキーの存在を意味づけているとのことですが、彼の視点は、一般に西側におけるロシアの発見と、どのくらい重なっていたのでしょうか。ロシアにはほかにトルストイやツルゲーネフ、そしてチェーホフもいたわけですが、そうした作家たちとはどんなふうに差異化された姿でドストエフスキーは経験されたのでしょうか。
 なぜこのような質問をするかというと、一九一〇年代の初頭にフランスのバレエ界を席けんしたロシア・バレエ団(バレエ・リュッス)のプリミティヴィズム芸術がどうしても連想されてくるからです。それを考えた場合に、彼の文学のどういったところが衝撃を与えたのか、その意味はどこにあったのかという疑問が浮かんできます。単純にロシア文化の持つ野蛮さ、プリミティヴィズムがショックだったのか、それともフランス文学ではけっして描き得ない世界がそこにはあって、そうした異質さの発見が驚きだったのか。
沼野 西欧は僕の専門ではないもので、実はあまり突っ込まれたくないのですが(笑)。おそらくは西欧にない異質なものがそこに感じ取られて、そのため非常に衝撃的だったのだと思います。ですから確かに、後にバレエ・リュスのダンサー、ニジンスキーが西欧に与えた衝撃に近いものがあったのではないでしょうか。ただ、ロシア文学が西欧に与えた衝撃を考える場合、見逃してはならないのは、西欧の文学が力を失い腐りかけているという時代認識で、ヴォギュエの本にもそれは強く響いています。そこへロシア文学が登場し、それまでの美的規範にははまらないけれども、新しい野蛮な生命力を吹き込むものとして、歓迎された。では、そういったロシア文学受容の波の中で、ドストエフスキーが他のロシア作家と比べてどれくらい違う作家として捉えられていたのかというと、それはツルゲーネフのように洗練された西欧的教養を身につけた作家とは明らかに違う、相当に異様な感じがあったことは確かでしょうね。
 実は、二〇世紀の初頭の世界では、国際的にはトルストイの方が圧倒的に有名な大作家でした。一九〇一年にノーベル文学賞が創設されたとき、最初に受賞したのは、フランスのシュリ・プリュドムという、あまり有名でない詩人で、その結果、なぜトルストイでないのかという抗議がノーベル賞委員会に殺到したくらいです。ちょうど二〇世紀初頭には、象徴派の文学者ドミトリー・メレシコフスキーが『トルストイとドストエフスキー』という有名な本を書きまして、この本は早い時期から西欧語に翻訳され、強い影響力を持っていましたから(後にトーマス・マンなども愛読したようです)、こういった本のおかげで、欧米の一般読者の間でも、一方ではトルストイという大作家がいて、かたやドストエフスキーというそれに肩を並べる巨峰がいるという認識が共有されるようになっていったのでしょう。ただし、メレシコフスキーはどちらも偉大だけれども、互いに極めて対照的だとも主張しています。メレシコフスキーの有名な図式によれば、トルストイは「肉の預言者」だったのに対して、ドストエフスキーは「霊の預言者」だったということになる。どちらも西洋の美的師範から見れば異様な作家なのですが、こんな対照のうちに捉えられていたわけです。
 西洋の基準から見て異様に見えるということに関して言えば、有名なのは、ヘンリー・ジェイムズがトルストイの長編を称して言った「ぶよぶよ、ぶくぶくのモンスター」(loose baggy monsters)という言葉があります。私たちの今の常識では、なんとなくトルストイはドストエフスキーに比べると抹香臭くて常識的なものじゃないかとも思いがちですが、当時の西欧の美学から言えば、トルストイの小説でさえとても規範にはまらないような破天荒なものだったわけです。二人は違うけれども、驚くべきものという点では一致していたということですね。

 ポーランドの作家たち――ミウォシュ・レム・ワイダ
亀山 フランスの場合には最初にヴォギュエによる紹介があり、二〇世紀に入ってからはジイドやカミュのような、ドストエフスキーに対する非常に深い造詣を示した作家たちがいたわけですよね。カミュは『反抗的人間』という長大な評論の中で、イワン・カラマーゾフに至る反抗者の哲学を位置づける仕事をしています。また、フランソワーズ・サガンなどもかなりドストエフスキーの影響を受けたとされています。ドイツですと、トーマス・マンを筆頭に、ヘッセ、リルケといった大作家、大詩人の名前が思い浮かびますね。しかし、そうしたフランスやドイツ作家たちの流れとは別に、西欧とロシアの間に存在する、それこそ東でも西でもないと言えるようなところに、東欧の作家たちが存在します。そうした東欧の作家たちのドストエフスキー理解には、西欧の作家たちの理解と比べ、どんなふうに異なった面があったのでしょうか。
沼野 そこが僕にとって一番面白いところなのです。僕は一貫してロシアと並行して東欧の文学に関心を持っていましたから、そこからロシアやドストエフスキーがどう見えるかは常に自分にとっても大きな問題でした。亀山さんが言われたように、フランスの二〇世紀小説に対するドストエフスキーの影響は、ある線では非常に強烈に出ていて、それは昔流行った言い方を使うなら実存主義的なものと括れるんじゃないでしょうか。フランスの理知的な文学にはなかったような、人間の実存のどろどろした深みを探っていく文学、というわけですね。フランスのような西欧だからこそかえって、ドストエフスキーの異質さを自分たちには欠けたものとしてストレートに受け止め、取り入れられたという側面もあると思うのです。
 しかし、中・東欧の文化人や作家たちにとって、ロシアはそれほど素直には取り入れられない、自分たちに近いだけに近親憎悪的なものとか、違和感を感じる存在でした。それを僕が多少知っているポーランドとチェコを例にして、お話ししていきたいと思います。
 これらの国々は、ロシアと同じスラブ語・スラブ文化圏に属しています。ですからチェコ語・ポーランド語・ロシア語というのは互いにかなり近い言葉なのですが、だからといって親近感があるかというと、そんな単純なことも言えないわけです。それは中国・朝鮮・日本という東アジア諸国の複雑な関係を考えても、理解に難くはないでしょう。それから、これも改めて言うまでもないことですが、ロシアは正教なのに対してポーランドやチェコではカトリックが基本です。日本人は同じキリスト教だからそれほど違いはないんじゃないかと想像しがちですが、ドストエフスキーのカトリックへの憎しみに近い感情を見ても分かるように、この二つのキリスト教がじつは全く違うものだという感覚は、彼らにはほとんど体に染みついたものとしてあるわけです。このように違う宗教文化圏であることは、問題をさらに複雑にしています。
 ポーランドの例を先にとると、ドストエフスキーの作品ではポーランド人はそれほど重要な役割は果たしていませんが、例えば『カラマーゾフの兄弟』には端役として登場しますね。そして出てきた場合は、たいてい揶揄的に描かれている。『死の家の記録』や『白痴』にも登場しますが、『白痴』ではアグラーヤが自暴自棄になってあまり感じのよくないポーランド人と結婚してしまう。『カラマーゾフの兄弟』に登場するポーランド人は、ポーランド訛りの変なロシア語を使っていて、この辺にすでにドストエフスキーの偏見めいたものが顔を覗かせています(ちなみに、『カラマーゾフの兄弟』の最後に出てくる雄弁な弁護士フェチュコヴィチのモデルになったのも、ロシアで活躍したポーランド人弁護士スパソヴィチでした)。今だったらポリティカル・コネクトネス的な意識が世の中に広まってきていますから、文学作品で民族的偏見を露骨に表現することは難しくなっていますが、ドストエフスキーの時代のロシアにはそんなPCはなかったし、そもそも彼のようなロシア人の立場からすれば、他民族に対する感情を率直に書いて何が悪い、というくらいの感じだったのではないでしょうか。もっとも後でお話しするように、ドストエフスキーの偏見はポーランド人に対してだけではありませんでした。チェコの思想家マサリクは――彼については、後でまたお話ししますが――ドストエフスキーの外国人に対する態度をじつに的確に要約しているのですが、それを見るとなんと、フランス人、ドイツ人、イギリス人、ポーランド人、チェコ人、ユダヤ人のすべてに対してちゃんと理解を示さなかったか、偏見を持っていたかで、そのうえ彼は多民族的な帝国であったロシア国内の少数民族の問題について関心を払っていなかった、というんですね。こういう的確な指摘が早くから出てくるというのも、チェコ人ならではの視点でしょう。
 ポーランド人に戻ると、『死の家の記録』にもポーランド人は出てきますが、それは当時のポーランドの大きな部分がロシアに占領支配されていたからで、占領区域で蜂起に失敗した人々が政治犯としてシベリアに送られてきたわけです。その人々とドストエフスキーが会っていたのですが、その中にシモン・トカジェフスキ(一八二三―九〇)という、ほぼ同世代の政治犯がいます。トカジェフスキは後にポーランドに生きて戻り『懲役の七年』という回想録を書いているのですが、その中にドストエフスキーの章があります。ポーランド語で書かれた本ですから、ポーランド人以外の研究者にはあまり知られていないのですが、それを読むと、あるときドストエフスキーが「俺の体の中にポーランド人の血が一滴でも入っていたら、この場で死んでやる」などと言ったという、衝撃的な言葉が見つかります。もちろん回想録ですから一〇〇パーセント信用できるかは分からないのですが、いずれにせよ、ドストエフスキーがポーランド人をひどく毛嫌いしていたかが窺えるエピソードです。
亀山 ドストエフスキーのポーランド人に対する嫌悪感は、どこに根ざしているのでしょうか。カトリックへの嫌悪感と二重写しになっているのでしょうか。
沼野 それは重要な要素だと思いますが、他にもいろいろな要素があって、おそらく彼の嫌悪感というのは、ポーランドとロシアの歴史と文化とメンタリティのすべてがぶつかりあって、そのエッジからほとばしる火花みたいなもの、という感じがしますね。トカジェフスキの書き方から逆に見えてくるのは、ポーランド人の側にもドストエフスキーはなんて嫌な奴なんだという意識があったということで、両者ともに互いに対して偏見があったわけです。ポーランドとロシアの関係の複雑さは一言では言えないような深い根があります。チェスワフ・ミウォシュ(一九一一―二〇〇四)というノーベル賞を受賞したポーランドの詩人がいまして、僕は深くこの詩人に傾倒していた時期があるのですが、彼の著書の中でも特に素晴らしいのは『故郷ヨーロッパ』という自伝的回想録なんです。その中には「ロシア」という章があり、ポーランド人から見たロシア論として非常に卓抜なものになっています。ロシアに対する非常に複雑な感情が描かれているのですが、ミウォシュ自身はポーランド知識人の中ではむしろ「ロシア贔屓」と言っていいほどロシア語にもロシア文学にも通じていましたから、単なる偏見からロシア論を展開しているわけではないのですね。彼は亡命先のアメリカではカリフォルニア大学バークレー校のスラヴ科でドストエフスキーの授業も持っていたそうです。彼の本領はもちろんポーランド文学ですけれども、ポーランド文学はロシア文学に比べたらずっとマイナーですから、アメリカではロシア文学を担当せざるを得ないということもあったのでしょうけれども。
 そのミウォシュが言うには、ポーランド人は西欧とともに歩んできて、ルネッサンスも経ている。つまり文化的には明らかに西ヨーロッパにつながっているのですが、それに対して東のロシアは野蛮で、とてもヨーロッパとは言い難い国だという意識がポーランド人の側にある、と。ポーランド人の側は、そうしてロシアを見下したいわけですね。ところがロシア人の方は、ポーランドに対して自分たちが下だなどとは全く思っていない。同じスラヴ人だけれども、所詮ロシアの周辺にいる弱小民族じゃないか、という意識です。つまり互いが互いを見下そうとしているうえ、宗教も違う。言葉も似ているけれども、だからこそ互いの喋りが滑稽に聞こえる。ポーランドが西ヨーロッパを志向するのに対して、ロシアは西ヨーロッパへのコンプレックスを持ちながらも、自分たちの自足した宇宙を作ろうとしてきたわけで、志向性においても根本的に相容れないものがあるわけです。
 ミウォシュはロシアの象徴派の作家・思想家であったメレジコフスキーの言葉を引用していますが、非常に印象的なので(出典は突き止めていませんが)、ここで改めて紹介すると、メレシコフスキーはあるとき、ポーランド人と会話をしていてこんなことを言ったそうです。「ロシアというのは女なんだ。でもこの女は夫を一度も持ったことがない。ロシアはタタール人や皇帝たち、ボルシェビキのような連中に強姦されただけだった。ロシアにとって、ただ一人の夫はポーランドだった。しかし、ポーランドは夫としては弱すぎた」。これはさすがに含意のある発言で、二つの国の微妙な関係を表しているところがありますね。
亀山 どこか『カラマーゾフの兄弟』の中のグルーシェンカとポーランド人将校の関係を思わせるところがありますね。
沼野 たしかに、メレシコフスキーはドストエフスキーの作品に精通していましたら、それを実際に念頭においている可能性はありますね。今までミウォシュの例に即して話をしてきましたが、ポーランド人のインテリは大体においてロシアが嫌いなんですよ。インテリたちはほとんどがフランスへ向かい、そこが文化の中心だと思うのですが、ただ、その中にもロシアのことをよく知っている人は時折いる。語学的に言っても、ポーランド人が本気でやったら、ロシア語なんて簡単にマスターできる。ミウォシュはフランス語にもロシア語に堪能で、ドストエフスキーを原文で自由に読んでいたのですが、僕がよく知っているその他のポーランド作家だと、SF作家のスタニスワフ・レムもロシア語が自由に読めた。彼は西ウクライナのルヴフ出身で、ロシア語を若い頃から習得してました。一九九〇年代に僕はクラクフの自宅にまで彼に会いに行ったのですが、その時も、僕がポーランド語はあまり得意ではないと言ったら、すかさず、じゃあロシア語で話そうかと言って、非常に流暢なロシア語を話し始めたので、びっくりしたくらいです(もっとも、一分もすると、いつの間にかポーランド語に戻っているのですが)。
亀山 レムというと、たしかに世界的なSF作家というイメージが強いのですが、具体的には、どのようなドストエフスキーの影響があるのでしょうか。
沼野 作品自体に影響が見出せるとは簡単には言い難いのですが、彼のエッセイや文学評論の中には、卓抜なドストエフスキー論があって、彼のドストエフスキー理解が並々ならぬものであったことを窺わせます、例えば、スタニスワフ・マツキェヴィチというポーランド人批評家のドストエフスキーに関する著書についての批評があって(邦訳は「ドストエフスキーについて遠慮なく」井上暁子訳、レム『高い城・文学エッセイ』所載、国書刊行会)、レムは例によって舌鋒鋭くマツキェヴィチの論の皮相な点を批判するのですが、そうしながら、ドストエフスキーの深く多義的な芸術性に踏み込んで評価しています。この評論が書かれたのは一九六〇年代の初頭で、当時社会主義圏ではドストエフスキーはあまり好ましい作家とは認められていませんでしたから、レムはおそらくマツキェヴィチの論を批判するということにかこつけて、ドストエフスキーの本格的再評価の口火を切ったのではないかとも思えます。レムの大胆さは、もう一つ、一九六二年に発表したナボコフの『ロリータ』論(「ロリータ、あるいはスタヴローギンとベアトリーチェ」加藤有子訳、上掲書に所収)にも発揮されています。『ロリータ』も、そもそもナボコフという作家も、社会主義時代のソ連では禁止されていて読めなかったわけですが、レムはこの小説を逸早く英語で評論を書いたわけです。ここでもレムはナボコフの芸術性を高く評価し、当時の社会主義圏ではおそらく一番乗りという形で『ロリータ』評価に乗り出したのですが、この論で興味深いのは、『ロリータ』をかどわかすハンバート・ハンバートをスタヴローギンやスヴィドリガイロフに比べているということで、レムはナボコフの小説全体をドストエフスキーの世界に引き付けて論じているのです。
亀山 なるほど、先駆的な見方ですね。『貧しき人々』『悪霊』がそうですが、ドストエフスキーには、時々、ロリータ・コンプレックスが現れます。
沼野 ナボコフはドストエフスキー嫌いだったと言われていますよね。これには後でも触れたいと思うのですが。ですから『ロリータ』をドストエフスキーと結び付けられたら、ナボコフ自身は憤慨したでしょうけれども、レムはそんなことはお構いましに、二人の作家の同質性を指摘しています。
 ポーランド人の立場から見たとき、ドストエフスキーは混沌としていて訳が分からない世界だとされがちなのですが、レムはその点についても鋭い見解を述べています。先ほどのドストエフスキー論の方なのですが、「『現実の無意味さ』という言葉は、現象が無秩序に混ざり合った混沌という意味ではなく、現実の多義性、現実解釈の潜在的な多様性(少なくとも二重性)と理解されるべきである。ドストエフスキーはまさにこの、もっとも大きな困難を伴う分野の巨匠なのである」(井上暁子訳)。西欧的な偏見からすれば、ドストエフスキーは混沌として無意味でごちゃごちゃしたものを作っただけだと見えるのだけれども、決してそうではないということですね。これも卓見です。バフチンのボリフォニー理論にも通じるような見方ではないでしょうか。レムはSF作家ですが、文学作品の古典はほとんど読んでいましたから、文学的な感性は非常に高いものがあったと思います。
 ドストエフスキーとの意外なつながりでは、もう一人、映画監督のアンジェイ・ワイダを挙げなければなりません。彼はやはりどちらかといえばフランス的なものへの志向が強いのではないかと思いますし、彼の父親はいわゆる「カティンの森」の事件で虐殺された将校でしたから、ロシアに対して憎しみや恨みを抱いていてもおかしくはないのですが、ドストエフスキーが非常に好きですよね。『悪霊』を原作とした映画を作りましたし、舞台では坂東玉三郎主演(一人二役)の『白痴』の演出も手がけている。ドストエフスキー理解は非常に深いと言えます。
亀山 ワイダの名前から、アンジェイ・ズワウスキを連想したのですが、彼にはワイダにはないデモーニッシュな憑依、ドストエフスキー狂いを感じました。ワイダの場合には、断固たる社会主義嫌いの一面があって、『悪霊』を映画化する際にもその点が濃厚に出ています。福音書を持って放浪の旅に出るステパン・ヴェルホヴェンスキーの扱い方にそれが示されています。ところが、ズラウスキの方にはドストエフスキーの混沌をそのままに受けとめてしまったようなところがありますね。
沼野 ズワフスキは――ポーランド語では正しくはジュワフスキと発音するのですが――ワイダを受け継ぎながらも、確かにワイダの世界を狂気に境を接した直截的な官能にまで突き詰めたようなところがありますね。それをドストエフスキー的と言えば言える。一方、ワイダの主要な映画は、彼の社会的な関心に支えられ、体制と闘いながら作られてきたという性格がありますから、ズラフスキとはタイプはかなり違います。だから、そのワイダにとって、ドストエフスキーが非常に重要な作家であったというのは、ちょっと意外な感じがするのです。
亀山 ワイダはジュワフスキと比べれば、映画を作るということへの批評的意識が強くある。しかしそれでも、ドストエフスキーへの愛情、洞察力は作品の随所に感じられますよね。
沼野 僕には――『悪霊』がフランスとの合作だったからかもしれませんが――どうも西欧的な立場からすっきり作っているという感じもするのです。『悪霊』のような作品を全面的に受け止めてちゃんと映画化するなど、どだい無理な話ですから、どこかの側面を切り取るしかないのでしょうが、ワイダの感覚はドストエフスキーに対してはどこかフランス的なセンスの良さを感じてしまいますね。
亀山 そうですね。たしかに、音楽が使い方などは洗練の極みをいっているという感じです。

 チェコの作家たち――マサリク・チャペック・クンデラ
亀山 次に、チェコの作家たちのことを伺いたいと思います。チェコはポーランドよりも、ある意味ではさらに西欧に近いとも言えるのですが、チェコの文化的伝統の中で、どのようにドストエフスキーが受け入れられていたのか、興味があります。なんといってもミラン・クンデラを生んだ国ですから。その辺りはどうでしょう。
沼野 チェコはポーランドとも地理的に近いし、中央ヨーロッパの一国として似ているところもあるのですが、他方ではポーランドと一線を画すような文化的伝統も持っています。ごく簡単に線引きをすれば、ポーランドがフランス語文化圏とのつながりが強いのに対して、チェコはドイツ語文化圏ですからね。二〇世紀のチェコ思想史上、最大の人物であると言ってよいトマーシュ・ガリグ・マサリク(一八五〇―一九三七)という政治家・思想家のことから始めましょう。彼には『ロシアとヨーロッパ――ロシアにおける精神潮流の研究』という古典的名著がありますよね。日本でも最近新たな決定版とも言うべき翻訳が出ましたが(全三巻のうち第一巻は石川達夫訳、第二・第三巻は石川達夫・長與進共訳、成文社)、これは最初にドイツ語で一九一三年に出ているわけで、時代の文脈を考えれば、西欧における「ロシアの謎」への関心の高まりに呼応するような、最初の本格的な著作の一つだったのだろうと思います。これは一種の思想史的ロシア論なのですが、この中でドストエフスキーの比重が異様なほど大きいのです。ドストエフスキーを論じているのは、第三部第二編「神を巡る闘い――ロシア問題の歴史哲学者としてのドストエフスキー」なのですが、邦訳で言うと一五〇頁もの分量を占めている。二〇世紀初頭の時点において、ロシア思想の謎を解く鍵がまさにドストエフスキーにあった、ということをマサリクは見抜いていたのです。マサリクはチェコ人ですから、ドストエフスキーをはじめとして、ロシア文学やロシア思想の膨大な文献をロシア語で自由に読みこなしています。
 ここではニヒリズムや宗教思想を巡る神学的・哲学的議論が繰り広げられていて、僕にはそういった方面の素養はあまりないので深く理解できていない点もあるだろうと思いますが(こういった側面については佐藤優氏が『文學界』の連載「ドストエフスキーの預言」でマサリクからの引用をふんだんに使って、延々と論じています)、論の全体的な方向性やマサリクの基本的な姿勢を理解するのは難しくありません。つまり、訳者の石川達夫氏の優れた解説に依拠しながら説明すれば、マサリクは西欧の進歩主義的な立場、反神秘主義的で多分にプロテスタント的な立場から、ロシアを批判的に見ているのであって、ロシアの中の西欧派に対して肯定的、スラヴ派や民族派などに対して否定的です。その中でも特にドストエフスキーを論駁しようとする意図がはっきりと感じられます。
 マサリクは「嘘をついて真実に至ろう」とするドストエフスキーのねじれた精神を批判します。ドストエフスキーは革命家たちのニヒリズムを批判しましたが、マサリクに言わせると、彼のニヒリズム理解そのものが間違っていた。ドストエフスキーは無神論もニヒリズムも革命もいっしょくたにして、全部否定しようとしたが、革命はもっと歴史哲学に基づいて捉えなければ理解できない、というのがマサリクの立場です。つまり一九世紀の進歩的・実証的な思想家たちの主張をドストエフスキーは全否定しようとしたわけですが、「神がいなければすべては許されている」という彼の公式そのものが、じつは道徳を神に直接由来するものとしてしか考えられない正教の世界観の裏返しであって、西欧で近代に築かれてきた、もっと人間性に根ざした道徳というものとドストエフスキーは無縁だった。これはある意味では西欧以上に西欧的なドストエフスキー批判になっていますね。
 しかし、これほどドストエフスキーを批判しながら、彼にこれだけ大きな紙幅を割くということそのものが、ドストエフスキーの偉大さを裏返しの形で認めているという証拠にもなるんじゃないでしょうか。マサリクはこの大著の執筆の動機について、第一巻の「はしがき」でこんな風に言っています。「(ロシアについて何か書くように勧められたとき)私は、ドストエフスキーにおいてロシア革命とロシア問題一般の本質を描き出そうという意図を抱いた。しかしながらその私の論文は成功しなかった。私はその仕事をしながら、ドストエフスキーの先行者たちと後継者たちを分析せずにはドストエフスキーを正しく描き出すことはできないということを見てとった。けれども、それは、宗教哲学および歴史哲学のもっとも重要な諸問題と、ロシア文学の諸問題一般を描き出すことを意味する」(石川達夫訳)。つまりマサリクのロシア論の中心に最初からドストエフスキーがあったわけで、ドストエフスキーの問題と限界をしっかりと理解することが、彼にとってはロシアを理解することだったわけです。
亀山 その意味では、ベルジャーエフがロシア性ないしロシア的理念というものをドストエフスキーの作品を通して構築しようとしていた立場と似ているかもしれませんね。
沼野 そうですね。しかし先ほど言ったように、マサリクは結局のところ西欧の進歩主義的な立場からロシアを見ているところが決定的に違います。チェコ研究者であり、マサリクの大著の翻訳者でもある石川達夫氏の言葉をもう一度借りれば、「マサリクのロシア観の特徴は、一言でいえば(中略)神権政治が民主主義によって交代されるという自らの歴史感に基づいて、はっきりと西欧の進歩主義的な民主主義の立場からロシアを見ているということである」。
 このマサリクを親しく、彼を敬愛していた作家がカレル・チャペック(一八九〇―一九三八)なのです。チャペックはマサリクに何度もインタビューをして、それを『マサリクとの対話』という大著にまとめているくらいです。ただし、面白いのは、マサリクにそれほど傾倒しながらも、チャペックはロシアに対する興味を共有していないように見えることです。チェコの専門家としてチャペックにも詳しかった故千葉栄一先生にこの点について伺ったら、チャペックは何でも興味を持っていたから、もちろんロシアにも関心を抱いていたはずだ、というのですが、たとえば文学についてみても、チャペックはロシア文学についてはほとんど論じていません。彼が若い頃から熱中していたのはフランス文学、特に詩だった。つまり、年齢はだいぶ違うにせよ、同時代を生き、互いに深い精神的交流をした二人のチェコ知識人の一方、マサリクが他の追従を許さないほど深くロシア研究にのめりこんだのに対して――もちろんロシアに心情的に同化したのではなく、ロシアを批判的にとらえていたのですが――、もう一方、チャペックはロシア革命の脅威といった時事的な問題にはもちろん関心があったにせよ、ロシア文化や思想にはあまり興味を示さなかった。この際立った対照は面白いですね。
亀山 そうしたチャペックの伝統が、クンデラに受け継がれていくのでしょうか。
沼野 チャペックという作家は、チェコ文学の歴史の中でも独自の位置にいます。クンデラとも資質が全く異なっています。そのせいか、クンデラはチェペックについては不思議なくらいほとんど何も書いていません。だから二人の間に文学的つながりがあるとは単純には言いにくいと思います。そもそもクンデラはチェコの狭い枠の中ではなく、もうちょっと広い中央ヨーロッパ文化の文脈で自分の文学を考えたがる人です。だから、むしろチャペックよりは、マサリクのような西欧の進歩主義的な立場からのドストエフスキー批判を、ある意味では受け継いでいると言えるでしょう。クンデラのドストエフスキー批判は、マサリクの論に姿勢として似ているところがあります。ポーランド同様、チェコは西欧と並行してルネッサンスを経て、近代的な価値観を形成していくわけで、西欧と文化的にもつながっているという自覚が非常に強い。それに対して――これはロシア文化史上の微妙な問題ではありますが――ロシアは少なくとも西欧的な意味でのルネッサンスは経験しませんでした。ですから西欧の進歩主義的な立場から見れば、ロシアはルネッサンスの洗礼も受けておらず、人間中心主義的な価値観に基づく文化の近代化を経ていないので、アルカイックで混沌とした不思議な世界のまま残っているということになる。
 クンデラはそういったロシアとヨーロッパの違いを強く感じるわけです。彼が理想とするのは西欧の軽やかな批判精神、つまりはアイロニーと懐疑の精神で、それこそが近代小説の本質だということになる。その立場から見ると、ドストエフスキー文学は不合理な感情が混沌と渦を巻くような世界であって、しかも一番問題なのは、それが「あらゆるものが感情になってしまう世界」「感情が価値や真実と同列に扱われてしまう世界」だということです。
 そういったことは、邦訳もある『ジャックとその主人』というクンデラの戯曲の序文で、クンデラ自身が詳しく書いています。一九六八年にプラハがソ連に占領されますが、その際、クンデラは反体制的作家と見なされて著作もすべて発禁になり、彼は生活の糧を失ったのです。そこである友人の演出家が、彼を救うためにドストエフスキーの『白痴』の脚色をやらないかと声をかけてくれた。もちろん発禁作家ですから、脚色といえども名前は出せないけれども、原稿料はちゃんと支払おう、というありがたい申し出です。しかしクンデラはそのとき『白痴』を読み返して、こう感じたというのです。「私は悟った。たとえ飢え死にしかけていても、そんな仕事はできないだろうと。大げさな身振り、どんより深い暗み、そして押しつけがましい感傷癖。こういうドストエフスキーの世界を覗いて、私はぞっとした。そして不意に、『運命論者ジャック』の世界への説明し難いノスタルジアが沸き起こるのを感じた。『ドストエフスキーよりディドロの方がいいんじゃありませんか』と私は言ったが、演出家は首を縦に振らなかった」。『運命論者ジャック』はディドロの作品ですね。こうしたわけで、クンデラは自分がドストエフスキーをいかに嫌いかということをそのときに悟ったというのです。
亀山 クンデラの『裏切られた預言』だったでしょうか。その中で、「ホモ・センチメンタリス」つまり「感傷人」という有名な言葉が出てきます。要するに感情を押し売りする人間です。クンデラは、この言葉で、例えばソ連時代の革命詩人ウラジミール・マヤコフスキーを痛烈に批判するわけですが、ドストエフスキーにもそれに近いところがなくはありません。クンデラのあの、どこか神経症的な微妙な拒否の姿勢というのは、何なのでしょうか。クンデラの心情、たしかに理解できないではありません。しかしどうしてそこまで公にノーを突きつけることができるのか、僕としては不思議でならないのです。
沼野 付け加えると、僕が若いころ研究していたユーリイ・オレーシャというソ連の作家がいるのですが、彼もまた晩年に『白痴』の脚色をやっているのです。それはワフタンゴフ劇場のためのもので、実際に舞台にもかかわっているのですが、その頃のオレーシャの創作メモを見ると、やはりクンデラと同じことを言っています。脚色しなきゃいけなくなって『白痴』を読んだけど、感情の渦巻くなんと嫌な世界なのか、こんなことはやりたくないと。しかし彼は脚色を仕上げたわけですが、あまりにも嫌な世界なので、原作にはない綺麗なシーンを入れてしまうのです。トーツキンが虚空からぱっと花束を取り出す、とかね(笑)。脚色としてはなかなか面白いですよ。僕は学生時代にロシア語劇をこの台本を使ってやりました。

 アンチ・ドストエフスキーの系譜
亀山 クンデラやオレーシャの感じたドストエフスキーの異形性というか、何か異様なものとしてドストエフスキーを見る感覚は、他の作家たちにもいわば、ドストエフスキー嫌いというか、反ドストエフスキーの系譜の一つの特徴としてあるのではないかと思います。そうしたドストエフスキーを受け入れようとしない作家の代表として、クンデラを考えてよいでしょうか。
沼野 たしかに、亀山さんが言われたようなドストエフスキー嫌いの系譜というのがあるわけですよね。ドストエフスキー研究者は基本的に彼のことが好きだとか、崇拝しているわけですから、嫌いな人がいることなどあまり考えないのですが、中央ヨーロッパのインテリの中には、元々ロシアをあまり好きではない人たちが多くいます。その人たちにとっては、嫌いなロシアの一番不合理で不条理で淀んだ部分を代表するのがドストエフスキーだという認識がかなり共有されています。
亀山 ただ、僕自身にも、いくつかどうしても受けつけられないドストエフスキーの小説があるわけです。例えば、『分身』なんか正直言ってとても苦手です。堂々巡りを思わせる意識と感情のごった煮のような部分には、時々どうしてもついていけないと思うときがある。『罪と罰』以降の後期の小説は、全体としてバランスが取れていると思うのですが、『死の家の記録』以前の作品、特に初期のものはだいたいが不得意です。ですから、ドストエフスキーの小説を好きだと思っている人の中にも、何かしら受け入れがたく思っている作品がけっこうあるのではないか、と思うのですね。じつを言いますと、以前は、後期の作品でも『カラマーゾフの兄弟』のあのスネギリョフ大尉一家の話なんか辛くて読めませんでした。翻訳して初めてここの部分のすばらしさが分かりました。沼野さんご自身は、いかがかですか(笑)。
沼野 バランスが取れているだけじゃ、ドストエフスキー文学の強さは出てこないんじゃないでしょうか。全部割り切れてしまったらあまり面白くないわけで、ドストエフスキーの場合、受け入れがたいおぞましいものを突きつけてくるようなところがあるからこそ、本物の文学の力になっているのだとも思いますね。
 中東欧のロシア嫌いがドストエフスキーを嫌うのは、彼の内にロシアの嫌なところを凝縮して見ようとする傾向があるからなのですが、亀山さんが言われたように、彼のことを好きな人の中にも、一方では耐えがたいものを感じることがあるわけです。つまり、当然ながらロシア人の中にもドストエフスキーを好きでない人は少なくありません。ロシア人の一般読者の中にだって、本音のところでは、ドストエフスキーなんて好きじゃない、読んでも気分が悪くなるだけだ、という人は珍しくありません。言わば「玄人」の読者のドス嫌いの代表格はナボコフですが、彼と全く同い年のソ連作家オレーシャという人も、典型的なトルストイ贔屓、ドストエフスキー嫌いですね、オレーシャは元々がポーランド系の作家ですから、感性は西欧的と言ってもいいのかも知れませんが。
亀山 オレーシャの話を伺いながら思い起こしていたのは、現代作家のリュドミラ・ウリツカヤさんの言葉です。彼女にドストエフスキーの翻訳に関して質問をしたことがあるのですが、そのとき彼女がドストエフスキーにあまり好意を持っていないことが分かりました。『白痴』の第一部だけは、文句なしの傑作だけれども、あとはどうしようもない、といった切り捨てるような言い方をしていましたね(笑)。ところで、そうした反ドストエフスキーの系譜に連なるというか、その中心に位置するナボコフの話を伺えますか。
沼野 たしかに、ドストエフスキー嫌いとしてよく知られているのは、ウラジーミル・ナボコフですね。先ほどのレムの話にもありましたが、『ロリータ』などはスタヴローギンやスヴィドリガイロフの世界に近いような気もするのですが、ナボコフ自身はトルストイを非常に高く評価していまして、ロシアの小説家の中ではおそらく彼を最高峰と見なしていました。『ロシア文学講義』(邦訳は小笠原豊樹訳、TBSブリタニカ)というナボコフのアメリカの大学における講義録を元にした本には、それがはっきりと表れています。日本でもこの翻訳が出たときに、ちょっとした波紋をよんだのですが、ドストエフスキーに関する部分が本当に辛辣なのです。ドストエフスキーなんて二流のセンチメンタルな通俗作家であって、例えば『罪と罰』にしても、娼婦と殺人者と聖書の組み合わせというのは何たる低俗な三題噺なのだ、こんなひどいメロドラマはないとこきおろしている。
 これを小笠原豊樹さんが英語から翻訳して日本で出版されてときに、江川卓さんが読んで憤慨し、かなりがんばって反論を書きました。うろ覚えなのですが、ドストエフスキーの小説世界はそんなに安っぽいものではなく、じつは聖書のモチーフなどもきちんと踏まえて、緻密な文学的たくらみを持って書いているのだ、という趣旨の反論です。確かにドストエフスキーにおける聖書モチーフというのは、もちろんそれ自体研究に値するテーマで、我々にも分かっていないことがまだかなり隠されているような気がしますが、それでも江川さんの弁護の試みも、ナボコフの辛辣さを打ち負かすほど説得力があるものとは思えなかった。
 だって、ナボコフの言っていることはある程度当たっているわけですからね。娼婦(ソーニャ)と殺人者(ラスコーリニコフ)と聖書の取り合わせなんて、他の常識的な作家であったらたしかにできません。そんな、我々からすれば何というメロドラマだ、という組み合わせを平気でやる。そこから力を引き出すのがドストエフスキーの凄さなのですが、ただナボコフはそれを認めたくなかった。
亀山 お話を聞いていると、日本におけるドストエフスキーの受容がいかに異常で、異様かいう思いにかられますね。詩人のヨシフ・ブロツキーはどうですか。
沼野 クンデラとブロツキーの関係に即して言えば、先ほどの『ジャックとその主人』の序文を読んだブロツキーが憤慨して、反論を書いたことがあります。それでクンデラとブロツキーは一種の論争になったのですが、ブロツキーはそこではクンデラを批判して、ドストエフスキーを擁護したのです。これはブロツキーの単行本には入っていないのですが、「なぜクンデラはドストエフスキーに関して間違っているのか」というエッセイで、『ニューヨーク・タイムス・ブックレヴュー』一九八五年二月十七日号に掲載されました。ここでブロツキーは、クンデラのドストエフスキー理解、さらにはロシア理解がそもそも間違っていると、正面切って批判をしています。ロシアが感情の帝国で、西欧が理性の世界だ、といったクンデラの諭法はあまりにも単純な二項対立的図式で、現実のロシアはそんな風に単純に割り切れるものではないということです。
 一九六八年当時、チェコはソ連に事実上占領されていたということもあって、文学的な価値判断が歴史的事情によって濁らされているのではないか、ともブロツキーは言っています。ブロツキーによるクンデラ批判がさらに面白いのは、結局は西欧批判になっていくところです。ブロツキーはソ連からの亡命者で、英語の詩の世界にも通じていて、幅広い西欧的教養のある人なのですが、その彼に言わせると、クンデラは西欧の価値観を中心にしかものを見られない、西欧の枠の中で生きている西欧中心主義者だというわけです。それて、われわれロシア人は西欧の枠からはみ出して生きる遊牧民(ノマド)であり、ヨーロッパ中心主義の定住者はノマドを憎悪するのだ、と。クンデラとブロツキーのあいだの論争は、結局はヨーロッパとロシアの問題に帰着するのですが、そこでもドストエフスキーが焦点になっているところが面白い。
亀山 それだけ多くの作家たちにとって、ドストエフスキーが受け入れがたいものとしてあるわけですね。我々日本人にとってドストエフスキーを批判するのはどこかタブーのようなところがあるのに、そこまで堂々と批判できる作家たちはすごいなと思います。
沼野 一つには、今ではトルストイの影響が弱くなっているからということもあるのではないでしょうか。昔だとトルストイ派とドストエフスキー派が拮抗していて、互いに相手をけなしながら議論できたんですけれども。
亀山 かつての日本には、トルストイ主義者であることをしっかりと表明できる基盤というか文学的な風土があったわけですね。
 日本の作家たち――村上・高村・大江
亀山 さて、アメリカでのドストエフスキーというと、まず第一に、ウイリアム・フォークナー、次にフラナリー・オコーナー、カーマン・マッカラーズところが思い浮かぶわけですね。南アメリカだと、ボルヘスは第一次大戦中にドストエフスキーを読んでいるようです。ただし後年はアンチ・ドストエフスキーの側に回っているわけですが。ところで、メルヴィルはドストエフスキーを読んでいたのでしょうか。それにそう、思い出しましたが、例えばスコット・フィッツジェラルドも『カラマーゾフの兄弟』の愛読者だったと聞いています。
沼野 アメリカにおけるドストエフスキー受容というのは、また別途考えるべき大きなテーマでしょうね。最近『ユリイカ』のドストエフスキー特集(二〇〇七年一一月)のとき、柴田元幸君と対談したのですが、やっぱりそういう話は出てきましたが、体系的に論じられたものがあまりないのではないでしょうか。おそらくあまりに偏在していて、まとめようがないのではないでしょうか。イギリスの場合だと、『ドストエフスキーと英国』という論集がレバーバロウというドストエフスキー研究者によって編纂されていて(オックスフォード大学出版局、一九九五年)、見通しがある程度つくのですけれども。
 ただアメリカの場合は、直接の影響関係ができる以前から、ドストエフスキー的な作家の系譜があるとも言える。これは柴田君が言っていたのですが、一九世紀いわゆるアメリカン・ルネッサンスの代表的な作家たち、ホーソーン・メルヴィルといった作家たちはみなドストエフスキー的な要素を持っていた。まあ、何をもってドストエフスキー的と言うかというのも人さまざまでしょうけれども、僕なりに言えば、この三人はみなリアルなものを突き抜けるような形而上的なヴィジョンの強さを秘めていて、その想像力の質においてドストエフスキー的とも言えるのではないでしょうか。ただ、これは実際的な影響関係とは全く別の話です。調べたことがないので、これは単なる推測ですが、メルヴィルとドストエフスキーはほとんど同時代人で、互いの作品を読んだことはなかったのではないでしょうか。
 二〇世紀のアメリカ作家となると、当然、英訳で読んで影響を受けた人は続々と出てくる。フィッツジェラルド、フォークナー、それからサリンジャーもきっと読んでいるに違いない。黒人作家のラルフ・エリソンには『見えない人間』という代表作がありますが、これなんかはもろにドストエフスキーの地下室人でしょう。しかし、その反対に、ドストエフスキーべったりという作家もあまり思いつかない。
 とはいえ、ドストエフスキーが二〇世紀を通じて、英訳によって英語圏の広範な読者に対して大きな影響力を持っていたことはたしかです。英訳の歴史については、話せばまた長くなるのですが、以前、大江健三郎さんと対談をしたときに(『21世紀 ドストエフスキーがやってくる』所収、集英社)、少しお話ししたことがあります。先ほども言いましたが、二〇世紀初頭からコンスタンス・ガーネットなどの翻訳がすごい勢いで出て、それ以来、長いこと読み継がれていたのですが、最近では新訳の機運が高まって、特に注目されているのはリチャード・ピヴィアとラリーサ・ヴォロホンスキーという夫婦の訳業です。(奥さんはロシア人です)。この二人は一九八〇年代からドストエフスキーやトルストイの原文のニュアンスを忠実に出して、単に読みやすいこなれたものではない新しい英訳を次々に出し、英語圏で新たに読者を開拓しつつあります。
亀山 最近、お会いしたアレクサンドル・ゲニスさんが、ロシアの現代文学はほとんど英訳されなくなってきているけれども、ロシア古典の英訳は進んでいるとおっしゃっていました。今、思い出したのですが、ハードボイルド作家のレイモンド・チャンドラーもドストエフスキーが好きだったのではないでしょうか。ヒッチコックの『見知らぬ乗客』という映画を見ていましたら、これがなんと『カラマーゾフの兄弟』のパロディをなしているところがある。で、よく調べてみると、なんと台本は、チャンドラーが書いていました。でも、アメリカでのドストエフスキー受容の全体像というのは、我々ロシア文学者にはなかなか見えにくいような気がします。
沼野 そう思いますね。レイモンド・チャンドラーとドストエフスキーという意外なつながりの話が亀山さんから出ましたが、当然ながらそこで村上春樹を連想するわけです。そこで最後に現代日本のことに話題を少し移したらと思うのですが、まず村上春樹とドストエフスキーと話題についてはすでにかなり言われていますね。横尾和博さんという方が『村上春樹とドストエフスキー』というそのものずばりのタイトルの本をけっこう早くから出していますし(日本文芸社、一九九一年)、ロシア文学の専門家では井桁貞義さんがしばしば評論を書いています。まあ、それもそのはずで、村上春樹の作品にはあちこちに、「美味しい」ドストエフスキーへの言及があって、『カラマーゾフの兄弟』が好きだということは作家自身が何度も言っています。
 日本におけるドストエフスキーの影響一般となると、これはとてつもなく大きな話題になりますが、この主題に関しては松本健一さんが『ドストエフスキーと日本人』という本を書かれていますよね。これは初版が一九七五年に出ていて、いわば松本健一という批評家の出発点にある本です。松本健一といえば、北一輝諭があり、日本近代思想やアジア文化論の分野で膨大な著作がある評論家ですが、その彼の原点がドストエフスキーというのは、このロシア作家がある意味では日本近代文学の常に中心問題であり続けたからでしょう。松本さんの本は最近、新版が出たのですが(第三文明社、レグルス文庫、上・下、二〇〇八年)、そこに新たに付け加えられた一九七〇年代以降を扱った章の最後では、村上春樹のことも論じられています。松本さんはそこでは、村上春樹に対するドストエフスキーの影響はあまり本質的なものではなく、村上との「近縁性」を語るのであれば、やはり一九二〇年代のアメリカで都市小説を書いたフィッツジェラルドの方ではないかと、と主張しています。
 じつは僕にもどちらかというと松本さんの意見に近いところがあって、春樹におけるドストエフスキーの影響はあまり誇大に見ないほうがいいと思っています。村上春樹に実質的な影響を与えているのは、彼が原文で読みもすれば、翻訳もしているアメリカ文学の方だというのは、言うまでもありません。ただ、彼はカフカとかドストエフスキーといった文学上のちょっと高級に思われそうな名前をいわば「ブランド名」的にうまく自分の作品の中にとりこむことにかけて、天才的な才能があるんですね。『海辺のカフカ』という小説のタイトルだってそうで、カフカとか『カラマーゾフの兄弟』とか、普通であればポップ・カルチャーの中には登場しにくいものをうまく取り込んで、それを魅力的に響かせてしまう。『海辺のカフカ』が現れる前に、誰がそんなタイトルの小説が可能だと思ったでしょうか。しかし、いくらタイトルがそうであっても、またそのおかげでプラハ市の主催する「フランツ・カフカ賞」を彼が受賞したからといって、村上春樹に対するカフカの影響がさほど本質的なものとは思えない。ドストエフスキーについても僕は似たような感想を持っているのです。
 とはいえ、村上春樹はロシア文学をよく読んでいることはたしかです。一つ引用してみましょう。一九八五年に中上健次との対談で、村上はこんなことさえ言っているんです。「僕は最初の小説の体験はロシア小説がほとんどだったんですよね。トルストイとかドストエフスキーとか、あんなものばかり読んでいた時期があって、それが小説を読んだ最初なんです。アメリカのものを読み出したのは英語が読めるようになってからで……」(『國文学』一九八五年三月号)。
 作品の中にもいろいろなところにドストエフスキーの引用が出てきます。例えば『一九七三年のピンボール』には、「『殆ど誰とも友だちになんかなれない』/それが僕の一九七〇年代におけるライフスタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた」とか、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にも、最後の方でカラマーゾフの兄弟の三人の名前をちゃんと言える人がどれくらいいるだろうかと主人公に問いかける場面とか。こういった台詞はドストエフスキー文化に染まってきた日本人だからこそ、わりと自然に受け止められるわけで、それが現代小説の中の気の効いた台詞として使えるということは、ドストエフスキー受容のしっかりした土台があるからこそです。そして村上春樹はその土台の上にうまく乗って、普通であれば軽々しく出せないような重みを持った名前をポップな形でうまく使うことができた。これはたしかに新しいもので、彼の才能のすごいところです。
 ただ、じゃあ、それが作家に対する本質的な影響としてどれほど意味があるのか、というのは別問題じゃないでしょうか。一口に影響と言ってもいろいろあるわけで、ある作家を愛読したからといって、即、影響になるわけではありません。例えば『罪と罰』や『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』の主題や世界観がどれほど村上春樹の小説に影響を及ぼしているのかといえば、それはやはり埴谷雄高や大江健三郎などの場合ほど顕著なものでとはとても言えないのは明らかでしょう。
 最新作の『1Q84』ではむしろチェーホフが色濃く現れていますね。亀山さんも指摘されていたと思いますが、あそこに出てくるチェーホフの『サハリン島』経験というのは、村上にとってのオウム真理教体験なんでしょう。つまり村上は、オウム事件の被害者や信者たちにインタヴューをしたノンフィクションの仕事を一時するという形で一種の社会的コミットメントをしたわけですが、それをチェーホフのサハリン島の流刑囚の実態調査の仕事に重ね合わせているということですね。こちらのほうが、単なる「ブランド名」的なものを超えて本質的な関係があるような気がします。
亀山 高村薫さんについても伺いたいと思います。沼野さんは『照柿』の解説で、高村を現在のドストエフスキーだと書かれていますが、その点についてお聞きしたいです。
沼野 高村さんは元々ミステリーから出発しましたから、エンターテイメント系のミステリー作家だと分類されていました。ところがある時期から自分でもそのような分類を拒むようになり、推理小説とは言い難いようなものをどんどん書くようになった。最近の『晴子情歌』から『新リア王』、『太陽を曳く馬』に至る三部作にいたっては、これは純文学とか犯罪小説といった枠を完全に超えた何かとてつもないものになっていると思います。
 その中で、犯罪を描きながらある突き抜けた世界を作ってしまうというのは、やっぱりドストエフスキー的なところがあるわけです。つまり、高村薫の徹底的すぎるリアリズムの描写の迫力とか、異様に強烈な感覚はドストエフスキーの世界をもっと凝縮したようなものな感じがします。濃密な文体の強さ、『照柿』で描かれる殺人の不条理性や、異様に熱い空気――こういったものがあいまって、強烈な読書体験をもたらすのですが、これは『罪と罰』に似ていると思いませんか。そもそも『照柿』は担当編集者に『罪と罰』みたいなものをお願いできませんか、と依頼されたことを受けて書かれたものだったそうですけれども。
亀山 例えば『罪と罰』での金貸し老人殺人のような煽情的な場面を、どこか顕微鏡で覗いて言語化したような印象を受けます。描写というより言語化なんですね。この執念はやはりすごいと思います。
沼野 ただ高村薫の作家的資質はドストエフスキーと全然違うところもあって、彼女はリアルな描写をとことん突き詰める人です。ドストエフスキーは形而上学的議論の深みに言ってしまったら、現実のディテールはあまり気にしませんから、そこは全然違いますね。
 『照柿』での八王子の工場の労働現場の描写は、プロレタリア文学の作家でもここまでは書かないだろうというすさまじさです。『レディ・ジョーカー』では、大森の町工場でのビール缶の作り方の描写にはもう驚嘆するしかない。リアリズム的描写をここまで突き詰めた作家は、世界文学の中でも稀ではないでしょうか。その徹底性は、最近の三部作にはさらに限度を超えて、哲学的議論に向かいます、つまり『太陽を曳く馬』では、リアリズム的な現実描写だけではなく、思想的議論における徹底性が異様なところまで突き進んでしまった。もっともこの面はドストエフスキーに多分に由来するのでしょうね。
亀山 リアリズムを徹底的に突きつめると抽象になりますね。つまり、どんなにリアルな絵でも限りなくそばに接近していくと、点と面になって形態が消滅する。そういう意味で、高村さんが、『太陽を曳く馬』で、マーク・ロスコに注目しながら、福澤秋道という抽象画家を主人公に設定したアイデアは、ある意味で高村さんのリアリズムの二面性を物語っていると思います。
沼野 一方で、『晴子情歌』は晴子の読書体験として、トルストイが結構出てきますね。ですからトルストイ体験も一人の作家の中に同居している。それはおかしくない。
 そういう両立は他の作家にも普通に見られることでしょう。例えば大江健三郎の『さよなら、私の本よ!』は、ドストエフスキーの『悪霊』を思わせる雰囲気が至るところに漂っています。『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』などを思わせる要素があちこちに現れ、全体が高度に濃密にドストエフスキー的な小説なのですが、一方で若い頃の大江の評論には、トルストイを詳しく論じたものもあります。あるいは加賀乙彦が現在書いている長い小説は明らかにトルストイ的ですね。しかし同時に彼はドストエフスキーの深い理解者でもある。だいぶ昔の作品ですが、拘置所に収容された殺人犯たちを描いた『宣告』は、ほとんどそのまま『死の家の記録』の世界です。その時期にもよりますが、一人の作家の中にトルストイとドストエフスキーの両面が認められるということは、そんなに珍しいことではないのです。
亀山 辻原登さんも、『許されざる者』では、自分は『悪霊』のパロディを書くつもりで、徹底的にメモをとったが、いつのまにかトルストイになってしまったとおっしゃっていました。
沼野 そうですね、あの小説の舞台となった「森宮」という町は、和歌山県の新宮そのままのようでいて、文学的意匠としては、どうも『悪霊』の舞台の町であるスクヴォレーシニキが狙いにあったようですね。ところが実際の小説の展開は、トルストイ的な歴史小説になってしまった。ディテールの巧みな使い方や独自のリアリズム的描写もトルストイ的じゃないでしょうか。
亀山 そこで、村上春樹さんに話が戻るのですが、彼の小説がかりに、ドストエフスキーの世界を内在的というか、あるいは逆に明示的な形では反映していないとしても、構造的には濃厚に反映しているのはないかと思います。例えば「父殺し」の問題ですね。
沼野 そうですね。
亀山 エディプス・コンプレックスは、村上春樹さんとドストエフスキーが共有する一種の聖域のような印象を受けます。
沼野 『海辺のカフカ』は父殺しの話ですね。また、そこは麻原を思い起こさせる新興宗教の教祖が出てきますが、それを殺すのは父殺しというよりは、むしろ王殺しですね。これのテーマは『海辺のカフカ』から『1Q84』にかけて極めて濃厚で、それは亀山さんの言われるように確かに『カラマーゾフの兄弟』を構造的に引き継いでいると言えると思います。
亀山 『水死』にはドストエフスキーへの直接的な言及はありませんが、ついに来た、という印象を持ちましたね。最後の扉を開けると、そこは父の問題が残されていた、というような……。今回、海老坂武さんがとても興味深いエッセイを書いておられます。
沼野 大江さんにとって父親の問題は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』で一度本格的に展開しかけた主題です。あの作品は、文体や語りの実験性にかけてある意味で頂点を極めたような試みで、きわめて難解でした。しかし、父の主題そのものは結局解き明かされなかった。今回の『水死』では、亡くなった父が残したものを母親がトランクにしまっていて、それを見せてくれるのですが、それで父の死の真相が分かるのではないか、という仕掛けです。ネタバレになってしまうかもしれませんが、トランクを開けてみたらがっかりすることになって、結局、死の謎はやっぱり解かれることがない。しかし、その探求のプロセスを通じて、ここでも父の問題が強く出ているだけでなく、王殺しの主題も現れることになる。
 ちなみに『1Q84』も『水死』も王殺しの主題を提示するために、フレイザーの『金枝篇』を引き合いに出しているのですが、この符号は興味深い。いずれにせよ、この主題は戦後の日本にとって決定的に重要な問題ですよね。考えてみれば、王殺しは父殺しの一段階上です。その上の段階は、おそらく神を殺すということでしょう。これはまさに『カラマーゾフの兄弟』のテーマです。大江文学に関して言えば、彼は最後に今一度、この究極の問題に帰ってきたということではないのか。そういえば、ある友人が、『1Q84』と『水死』に似た要素が強いのは偶然なのだろうか、大江健三郎が村上春樹を真似したんだろうか、と尋ねてきました、もちろん、それは違う、これは大江健三郎の方が何一〇年も温めてきたテーマであって、むしろ大江さんのほうがドストエフスキーの直系の本家だと思います。
 亀山さんのドストエフスキー諭にとっても、父殺しの問題は中心的な主題ですね。おそらくこれは、作家の影響関係といった比較文学的な実証レベルの次元を超えて、何かもっと大きな精神のドラマではないのかという気がします。村上春樹の場合、オイディプス的な父殺しの問題は、ドストエフスキーを経由しなくてもあり得ることだとは思うんですが、それにしても主題の共通性は精神のドラマとしてしっかり受け止めるべきでしょう。
 僕はときどき半ば冗談で言うのですが、英訳からの重訳でもいいから、村上春樹がドストエフスキーを日本語に訳したらどうなるのか、ぜひ読んでみたい。村上訳『カラマーゾフの兄弟』がどういう文体になるのか、じつに興味深いところです(笑)。文体もまた思想だとすれば、村上訳ドストエフスキーを通じて、この二人の作家の世界観の近さと相違が浮き彫りになるような気がするんです。
(ぬまの みつよし・ロシア東欧文学)
(聞き手=かめやま いくお・ロシア文学)